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拒絶、のち

始まりは一本の映画だった。

某日、観るかもしれない…と録画しておいた映画を再生してみる。と言っても約2時間まるっと続けて観られるようなまとまった時間はなかなかとれない。
一人で観た方がいい気がしたので、子どもたちが早く寝た日や夫の帰りが遅い日などに少しずつ少しずつ観ていった。結果、一人で観てよかった。

あまりにいろいろと衝撃的すぎて、しばらく自分の気持ちをどこに置いたらいいのか分からなかった。
最初に抱いた感情は、「拒絶」に近かったと思う。
怖い。観なきゃよかった。はやく忘れたい…。

でも、その後もなかなか忘れられないどころか脳裏に焼き付いて離れない。気付けばその映画のことを1日に何度も考えている。
それはただ単に「恐怖」や「衝撃」という一言で片付けられるものではなかった。

それの正体は、おそらく「痛み」で。
胸が苦しい、悲しい。私はこの「痛み」に覚えがある…。
だからこそ、目を背けたいのに背けられない。忘れたいのに、忘れられない。
ならば…と、その正体に向き合ってみることにした。
(※ちなみにこれは割と危険な行為だと思うので、良い子はマネしないか、するなら心身ともにフラットな状態のときに細心の注意を払って行ってくださいね)

視聴後わりとすぐに録画を削除してしまった(そのままにしておくと義母が何も知らずに子どもたちの前で再生してしまう可能性がある)ので、もう一度繰り返し観るということはできない。
(どうしても映像的に直視できないシーンもいくつかあるし…)

私が主にしたのは、誰かの感想や考察文を読むこと。ネットで検索してみると、それはもう賛否両論の声が飛び込んでくる。
中には「この作品を絶賛している人の気が知れない」とか、逆に「この作品を受け入れられない人とは相容れない」とか、他にもここには書けないような、作品そのものを越えて人格否定にまで及ぶようなコメントも見受けられた。

私はどちらかと言うと「否」寄りの印象を抱いている。同じく「否」寄りの感想をいくつも見つけるにつれ、共感と安堵を覚えた。
「自分の感覚は間違っていなかった」のだと、安心しそうになる。

…いやいや待って。そうじゃない。
私は誰かの意見をもとに自分が間違ってないってことを確かめたかったわけじゃない。でしょ?
この、いつまでも胸に残る虚しさと苦しさの理由を突き止めたくて、わざわざこんな危険なことをしているんでしょう?

苦手なものや相容れないものを目の当たりにしたとき、拒絶するのは簡単だ。というか、ある種の自己防衛でもあると思う。正しい反応とも言える。
でも、今回はあえて「賛」寄りの意見にも多く目を通すようにした。この作品を絶賛している人たちが、どこに心を動かされているのか知りたかったから。

自分とは違う視点、違うものの捉え方でその作品を見てみたい。 
そしたら、自分がどこに拒絶を感じているのか、その先にある「痛み」の原点も掴めるかもしれない…。そんなふうに思った。

※繰り返しになりますが、これは割と危険な行為です。トラウマの増幅や、さらなる拒絶へ繋がる可能性もあります。多分、よい子はマネしちゃダメだよ。


その映画のどこが受け入れられないのか、どこに嫌悪感を抱いてしまうのか、自分なりに考えてみた。
まず、自分にとって「苦手」な描写が多かったなと思う。
例えば暴力、流血、殺戮、性的描写、ホラーなどが私の苦手とする描写。
件の映画にはおおよそこれら全てが詰め込まれていた。いわば個人的な「苦手」のオンパレード。
もうこの時点で「相性がわるかった」と逃げてしまいたい。

でも、考えてみるとこれらの描写のある作品の全てが苦手なわけではない。中には好きな作品だってある。
例えば国民的アニメと呼ばれるクレヨンしんちゃんの映画にだって、先に挙げたような描写は度々出てくる。
私の父がクレヨンしんちゃんファン故に、子どもの頃は毎年父に連れられて映画館へしんちゃんの映画を観に行った。しんちゃんの映画は、最新作以外はすべて観たことがある。

私も2児の母となった今、子どもたちと劇場版しんちゃん作品を新旧含めて観ることもある。子どもたちはあんまり深く考えずただ楽しんで見ているようだし、私も子どもの頃はそうだったと思う。
でも、大人になってから観るクレヨンしんちゃんの映画はいろいろ複雑で。
今だからこそ、より感動できるシーンや意味が分かるシーン、相変わらず大好きなシーンがある一方で、中には受け入れ難いシーンや素直に笑えない(笑えなくなった)シーンもあったりする。それは時代だったり、個人的な感覚の変化だったり。
でも、だからと言ってクレヨンしんちゃん自体を嫌いになったりはしない。

これは映画に限らず、人間関係でもそうだなと思う。
どんなに大好きな人にだって、ここはちょっと合わないなって感じる部分があったりするけれど、だからと言ってその人のことをまるごと嫌いになるわけじゃない。
こういうところは価値観が違うけど、こういうところは大好きなんだよね。って、それでいいかなと思っている。
時にはどうにも割りきれないこともあるし、逆に全く嫌だと思うところがないなって人ももちろんいるけれど。

私の友だちだったりフォロワーさんだったりも、私のすべてを好きという人ばかりじゃないと思う。
特にネット上で私は自分の心中をこうして文字にして曝け出しているので、当然合う合わないあるはず。
最近はより人間らしく(?)なってきたというか、いろんな感情を筆にのせるようになってきたなぁと自分で思うので、それで離れていく人もいるかもしれない。
そんな中、こんな私と繋がりつづけてくれている人やそっと見守ってくださる人たちには感謝しかないです。


ちょっと話が逸れました。

私はホラーとか怖い話が苦手だけど、「怖い」にもいろいろあるわけで。
件の映画は視覚的な怖さももちろんあったけれど、後から思えばどちらかと言うと「にんげんのこわさ」的な部分が大きかったような。
他人事ではない、と自分を省みるような…じわじわと背筋の凍る感覚。ほんの少し歯車が狂えばどちら側にも転び得るという、明日は我が身という恐怖。
そして、どんなに希望を抱いてもとことんへし折られ突き落とされるような絶望感。

向上しようともがく際の眩しいほどの強さの裏には、恐ろしいくらいの脆さ、危うさがあるように感じていて。
今、自分自身がもがいている真っ最中だから余計に身に染みるのかな。

私はそんなに映画を観る方ではないけれど、後味のわるさ・救いのなさという点では昔観た映画『リリィ・シュシュのすべて』に匹敵するかもしれない。
(この作品を好きな方、作者さん、具体名出してしまってごめんなさい)
映像の美しさとSalyuの歌声がわずかな救いだった。いや、むしろそれらが対比になってより苦しさを増強していたのかもしれない。
あの映画も観たあとかなり引きずったし、観たことを少し後悔した。
今観たらまた違った感想を持てるのだろうか。…あんまり見返す勇気はないのだけど…。いつか歩み寄れる時がくるかなぁ。

他人の感想や考察文を手がかりにして作品に深く潜るにつれ、少しずつ私が抱いた「痛み」の輪郭が見えてきた。
そんな、意味があるのかないのか分からないことに散々時間を溶かした末に私がたどり着いたのは…作品への賛でも否でもなく、この物語を作り上げた人への純粋なリスペクトだった。


駄目な映画を盛り上げるために 簡単に命が捨てられていく
違う 僕らが見ていたいのは 希望に満ちた光だ

Mr.Children『HERO』という曲のワンフレーズ。

中学生の頃に曲を知って、ここの歌詞に共感を覚えた。
人や動物がバタバタと死んでいくような物語が苦手だ。ストーリーを盛り上げるための演出のひとつでしかないのだと、命をぞんざいに扱われるような不快感があったから。
バッドエンドよりハッピーエンド、明らかなハッピーエンドでなくてもいい。例え絶望の中でも光を目指している。そんな作品がずっと好きだった。歌でも物語でもなんでも。

件の映画は、一見するとバッドエンドだ。
救いのない、絶望に満ちた後味のわるい終わり方。
でも、捉えようによっては希望のある終わり方とも言えるのだと、いろんな人の感想を見て知った。そうか、そういう捉え方もあるんだなって。

それらはあくまで一個人の感想や考察であって、作者の意図とは異なるかもしれない。
それでも、多くの人にそこまで深く考えさせてしまう作品を作り上げたという時点で尊敬せずにはいられない。

もしかすると、いやもしかしなくても、ただインパクトや意外性や派手さだけで作品を作っている人なんて、ほとんどいないのでは。
どんなに「駄作」と評されるような作品でも、きっと細かく考えられ、作り込まれている。
意味がないような場面にも、思わず目を背けたくなるような場面にも、何かしらの作者の意図があるのでは(ない場合も…あるかもしれないけど)
それが伝わるか伝わらないか、受け入れられるか否かは、それこそ人それぞれで。



私は今、小説を書くことに挑戦している。
今までにも書こうと試みたことはあれど、一度も書けたことはない。なのに今、いきなり長編小説に挑んでいる。
過去に何度も挫折した。というより、挑戦する前から諦めていた。でも、「今度こそは」という想いを胸に抱いている。
私は今のところ小説家として生きていきたいわけではないから、一生に一度と思って挑むつもり。
小説家を本気で志している人からすれば私みたいな甘い考えは受け入れられないかもしれない。でも、私も本気なのは確かなんです。

本気で取り組んでみて少し分かった。
物語をつくるのは、本当に難しい。
最初はいくつもの「点」が散らばっている。その点と点を、矛盾が起こらないように整理して、繋いでいかないといけない。
点と点を繋いで小さな「線」になったら、またそれを他の点や線と繋いで少しずつ長くしていく。そんな地道な作業を繰り返して、最終的には一本の線みたいにしていかないといけない。すんごく体力がいる。

登場人物の性格や生い立ちに説得力が必要だし、年齢や住んでいる場所、時代まで絡んでくると頭がこんがらがりそうになる。
小説を書いている人たち、みんなこんな偉業を成し遂げているの?と、驚きと尊敬の念が止まない。一体頭の中どうなってるんですか…?

なんで突然映画の話から小説の話になったのかと言うと、件の映画を観て、誰かの感想や考察文を読んで私が感じたこと、発見したことも小説の中に落とし込むつもりでいるから。
ただ怖がって終わり…じゃ、勿体ないもんね。
意味があるのかないのか分からないことに時間を溶かしたけれど、意味を持たせるかどうかは自分次第だと思うから。
普段だったらまず観ないタイプの映画に今のタイミングで出会ったことも、それについて考えをめぐらせた時間も、全部無駄にしないつもり。

普段、noteやブログや音楽文を書くだけでもかなりの時間を要するのに、本当に小説なんて書けるんだろうか。
自分が立ち向かおうとするものの強大さに尻込みして逃げたくなる。無謀だと諦めてしまいたくなる。
信じてきたものが本当に正しいのか分からなくなって、全部ぐちゃぐちゃーってして丸めて捨てたい衝動に駆られたりもする。

そういうとき、私はよく後戻りできない状況に自分を追い込む。
以前noteで「小説を書く」という野心表明をしたのも、そのひとつ。私が小説に挑戦していることを知っている誰かがいる。そう思うことで自分を鼓舞するため。

そしてつい先日、私はまたひとつ退路を断った。
小説を書き進めていく上で、避けては通れない部分に勇気を出して踏み込んでみたのだ。
おかげで視界がクリアになった。と同時に、もう後には戻れないという恐怖が背後に立っている。
怖くて足がすくむ。これは武者震いだ、と自分に言い聞かせて進むしかない。

思うように結果が出ないとき、自分には無理だと諦めそうになるときほど、私はただひたすら書くしかできない。書いてる間は、自分を信じられる気がするんだ。だからなるべく止めないように。
書くことで負った傷は、書くことでしか癒せないみたい。

笑えちゃうよな。こんなにいろいろ振り絞って進んだ先に希望があるとも限らないのに。
一生に一度のつもりで打ち込んだ結果が散々だったとしたら、反動で潰れてしまうかもしれないね。そのときはどうか私を元気付けてください… なんてね。

いつか小説が完成して、誰かに読んでもらえる日が来たなら…
当然、受け入れられる人とそうでない人と出てくると思う。私のことは好きだけど、私の作品は受け入れられないとか、その逆もしかり。
いっそ、私が書いたと知らせずに読んでもらって正直な反応を伺いたいなぁ。多分、すぐ私が書いたってバレるけど…。


それにしても、映画ひとつで何をここまで深く考え込んでるんだろう。
考えすぎだよ、映画は娯楽なんだから楽しければいいんだよ真面目か!って感じですが、すみません多分そうなんです。
というか、可笑しいな。わざわざ苦手なものに突っ込んでいって「ひー!」ってなってるの、客観的に見ておもしろすぎるな。本当に何してるんだろう自分。

そんなに深く考え込んで生きてて疲れない?大丈夫?って思われるかどうかは分かりませんが、常にこんな感じで生きているわけではなくて。むしろ普段はかなりぼぉ〜っと生きてるような人間なので。安心してください(?)

この間作った「ねこスコーン」です。
薄力粉がなかったので天ぷら粉で作りました。サクふわでした。

ねこスコーン、語感がいいですよね。


今回は映画ひとつでかなり深く潜ってしまった。
本当はこのnoteもさらっと書いて先々週くらいには投稿しているはずだったのだけど…。
(おかげで他にも書きたいことが渋滞している)
全然まとまらないし、もうやめて他の書こうかなって思ったりもしたけれど、そうするとそれこそ何のためにここまで時間をかけたのか分からなくなる。

今回の件で確実に得たものはあるから、きっとこの先の道を照らしてくれるはず。と信じて。
苦手なものにわざわざ歩み寄る必要なんてないかもしれないけど、たまにはあえて飛び込んでみると新しい世界が見えてくるかも…。

けど、繰り返しになりますが、かなり疲れるし時間も精神も消耗するのであんまりオススメはしません。オススメはしないけど、自分次第でどうにでもなるという意味ではおもしろいかもしれません。


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