感情
ついにNetflixでアニメ「PLUTO」が配信された。
まだ1話目しか見てないが、実におもしろい。
マンガを初めて読んだのは10数年前。今年の春頃、アニメ化されることを知って配信を待ち望んでいた。
ただ、おもしろいのはおもしろいんだけど、内容はやはり少しだけ重い。1話目の最後に執事ロボットのノース2号が「死んでしまう」シーンを筆頭に、序盤からずっと何とも言えない重苦しさがある。
行きつけだったスーパー銭湯のマンガコーナーで味わった感覚が動画になったことで強調されているようだ。
反対にもっと深い意味を持って語られてたはずのシーンがカットされてるような気もする…。マンガももう1回読んでみたい。
初めて読んだ当時でもかなり考えさせられる内容だったのだけど、ChatGPTや生成AIの話題がたびたび持ち上がる昨今だからこそ、より身近に感じる。
現実の世界でも技術は加速度的に進歩してて近い将来、AIも「感情」を持つだろうと言われている。それは科学のド素人でも何となくそうなりそうだと分かる。そういうレベルまで技術が進歩してるということなんだろう。
このマンガで何を考えさせられるのかといえば、この「感情」についてなのだ。AIが持つ感情は「感情」なのかどうなのか?ということだ。
昨晩試しにリビングにいるあいつに「OK、Google。疲れた。」と話しかけてみた。
「今日も本当に良くがんばりましたね。お疲れ様でした。」だって。
でもあいつに「お疲れ様」といわれても労ってくれてるとは全く感じない。少しも癒されない。
冒頭の方でノース2号は「壊れてしまう」のではなくて「死んでしまう」と書いた。複雑な会話や意思疎通が可能で、まるで人間のように振舞うノース2号だから擬人化して「死ぬ」と書いた。
では仮に、このノース2号に「お疲れ様」と言われたらどうだろう?労ってくれてると感じるだろうか?
恐らく、そう感じるに違いない。
GoogleNESTの場合は単純なプログラミングで反応的に労いの言葉を発しただけだと明らかに分かっているから感情を感じない。ボタンを押せばインターホンが鳴るのと大して変わらない感覚だ。
一方、複雑なプログラミングで動くノース2号の場合は、そこに感情を感じることができそうな気がする。ノース2号もプログラミングのはずなのに…。どちらも同じ機械が発する音声のはずなのに…だ。
じゃあ、どこからが感情なのか?という疑問が湧く。
そしてその問に対するぼくの仮説はこうだ。
対象が人工物かどうかに関係なく、それ自体が持つ存在としての複雑さが感情を感じる根拠になるんじゃないか。結局、そこに感情が存在するかどうかは、受け止める側の感じ方次第なんじゃないか。
手話で会話ができるゴリラ。
言葉を理解して行動する犬。
人影が見えるとエサをねだる金魚。
撫でると喜ぶペットロボットAIBO。
人間の心理に的確な返答をするAI。
どれが感情なのか?
どこからが意識なのか?
その境界線は全く曖昧で、受け止めた側の受け止め方次第なんじゃないのか。
そう考えると人間もただ複雑なプログラミングで動いてるに過ぎないんじゃないか、30数億年かけて積み上げられたプログラムで動くただのシステムとも言えるんじゃないか。
逆説的にはなるがそんなふうにも考えてしまう。
もしAIの感情が感情ではないとするのなら、それは人間の感情とどこが違うのか?
もしAIの感情が感情だとするなら、人とAIは対等な関係になる必要がある、つまりAIにも「人権」があるべきなんじゃないか?
そもそも人工的に感情を作ることができるなら、人間の抱く感情とは何なのか?そもそも実際に感情というものは存在してるのか?
そういうことを考えずにはいられない。それがPLUTOというマンガのおもしろいところなんだよね。
Netflixの月額は1,490円~だけど、PLUTOを見るだけでもその値打ちは十分あると思う。
見て損はないからぜひどうぞ。
ただ、こういうことを考えてるとすごく寂しくなる。ぼくがあの子に抱く感情も作り物なんじゃないかと不安にもなる。
一緒にいたい、もっと話したい、手を繋ぎたい、抱きしめたい。
その感情もプログラミング…つまり性欲や種族保存本能という生物的なメカニズムに端を発するただの現象なのなら、こんなに寂しいことはない。
美しく崇高で聖なるものだとまでは言わない。
でも少なくとも間違いなく存在しているものなんだと信じたいんだよね。
この感情だけはただの現象なんかじゃない。
ほんとだよ。