【小説】さよならは言えないから

■以前エブリスタに投稿した作品を加筆・修正したものです


「どうして! 何でなの!」

 9月。秋晴れの候。声を荒らげて怒鳴る彼女を目の前に、彼女がこんなに怒るとこは初めて見たなあ、なんて呑気なことを考えた。

 怒りに震えながら、床にぺたりと座り込む彼女を見つめる。ふっくらとした桜色の唇を強くかみ締めるのを見る度に、皮膚が切れてしまわないかと場違いなことさえ思ってしまう。そのくらい頭が全く働かない。働かせようとしても、思考は脳を抜けてするりとどこかへ逃げてしまう。これは、子どもの頃一度だけインフルエンザにかかったのと同じやつだ。そう、きっと抵抗しても無駄なのだろう。

「置いていかないでよ…」

 消えてしまいそうなほど弱々しい声音。自分よりもずっと小さい肩が震えている。床にポタポタと跡を残す感情の雫。ハンカチは無いかとポケットを探そうとしたけれど、きっと無意味だろうからやめた。
 薄っすら靄のかかった脳内が、まだ働くことを放棄している。うまい言葉が出てこない。思考もあまり廻らない。ただ、泣いている彼女を見つめることしか出来ない。

 

 突然だった。自分でも訳が分からなかった。2日前の日曜日。午後7時。部屋の掃除をしていたら、突然立ちくらみに襲われて、そのまま意識が遠のいた。
 あ、これやばいな。そう思った後から記憶無い。気がついたらまた部屋にいた。何も持てず、触れず、痛みも感じないこの身体で。ふらふらと頼りなく宙に浮かびながら。

 雪のような頬が真っ赤に染まっていく。強く握られた掌。ああ、そんなに握りしめたら、長い爪が肌に喰い込んでしまう。痛いだろうに。でも、自分では止めることも出来ないから。
 僕は、もう君に触れられない。声をかけることすら出来なくて。もどかしさと歯がゆさで、何も出来ない自分自身に苛立った。
 感覚のない拳をぎゅっと強く握りしめる。痛みは感じない。それすらも腹立たしい。


 彼女と向き合って数十分。部屋のドアがゆっくりと開いた。母親が部屋の整理に訪れたのだろうかと思ったけれど、どうやら違うらしい。正体は飼い猫だった。猫は彼女の傍に寄ったかと思えば、黄金色の瞳でじっとこちらを見つめてきた。明らかにこちらの方を向いている。まさかと思いゆっくり視線を動かすと、大きな瞳と目がぴったり合った。視線が交わった後も、変わらずこちらを見据えている。

 数年前に家の前で保護したこの猫は、基本的に僕に対する愛想はあまりよろしくなかった。ご飯の時だけ擦り寄ってくるような、調子のいいやつ。けれど、彼女にはよく懐いていた。彼女が家に遊びに来た時は、必ずと言っていいほど膝に乗ってきた。飼い主に好みが似るのだろうか。それとも、本来の飼い主が現れた時のために、情がわかないようにと名前を付けず、結局そのままにしてしまったことが悪かったのか。彼女にも、きちんと名前を付けてあげてとのお叱りを受けた。

 そう言えば、猫は不思議な物が見えると聞いたことがある。部屋の隅を見ている時は、大体この世の者では無い物を見ているのだと言ったのも彼女だったっけ。その時は半信半疑だったけれど、まさかこんな形で証明できるとは。この世の者ではない。ああ、やっぱり自分は。

 そういえば。猫を見つめながら、ゆっくりと机の方を指さす。目的はピンク色の紙袋。中身は彼女が欲しいと話していたが、値段が高いからと結局諦めていたアクセサリー。可愛いけどちょっと高すぎるなあ、なんて言っていたけれど、店の前を通るたび気にしていたのを知っている。普段から全くわがままを言わない彼女のためにと、つい先週購入したばかりだった。

 賢い猫は、僕の意図に気づいてくれたらしい。軽やかに机の上に飛び乗り、紙袋の持ち手を口にくわえ、再び彼女の元へと歩いた。

 淡いピンク色をした紙袋が彼女の目の前に置かれた。不思議そうに中身を覗く彼女を見て、ああ、やっぱり買ってよかったなあと思った。そういえば、ショップの店員に勧められたメッセージカードも入っているんだっけ。恥ずかしくて内容は忘れてしまったけれど。

 彼女の傍にいる猫が、誇らしげな顔でこちらを見つめてくる。「ありがとう」と口を動かすと、ご自慢の長いしっぽをひとつ振った。

「もう! 高いからいいって言ったのに…」

 怒ったような口調。再び泣き出してしまいそうな顔。けれど、さっきよりずっと柔らかい表情をしていたから安心した。やっぱり、君に怒った顔は似合わない。

 掌で小包を抱きしめる彼女を見つめていると、再び視界が曖昧になってきた。あの時とは違い、ゆっくりと、穏やかな眠りに落ちるように。
 沈む意識の中、ぽつりと彼女の名前を呼ぶ。こちらを向いたままの猫が一つ鳴き声を上げた。いつもと変わらない、高い声。声につられた彼女が、不思議そうに猫の視線を追う。こちらを向いた。ばっちりと目が合う。今度は彼女と。

「ありがとう」

 確かに、彼女はこちらを見て微笑んだ。潤んだ瞳のまま。見えていたどうかは分からない。でも、それでいい。

 こちらを見ながら猫を撫でる彼女を最後に、とうとう視界が途絶えた。もう、これでおしまいだ。

 ああ、最期に彼女を笑顔にできてよかった。怒らせてしまったままの別れなんて格好がつかないから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?