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サッカーとの出会い、憧れの中山雅史

皆さま、こんにちは。
七瀬です。

先日、初めてアップしたnoteで、
周りに僕のことを聞くと、
「多趣味である」ということが挙げられると書きました。

では、多数ある趣味について、
ひとつひとつ書いていこうかなと思います。

「多趣味」の枠に入るか分かりませんが、
僕の人生を語るうえで、絶対に欠かせないもの
「サッカー」
です。

ただ1記事だけで、語ろうとすると
ものすごい量になってしまうので
何個かに分けて書いていきます。
今回は、サッカーとの出会いと憧れの選手を見つけたときのこと
を書きたいと思います。

サッカーとの出会い

サッカーと出会ったのは何歳のときか。
もう覚えていません。
生まれたときから兄がサッカーをやっていて、
両親も、兄も姉もサッカーが好きな家庭。
常にそばにあったものでした。

そんなサッカーに囲まれている環境ですが
小さいころからサッカーが大好き!
というわけでは、ありませんでした。

意外!と言われますが、小学校低学年ぐらいまでは
サッカーが大好き!ではなく、
小さいころからずっと継続して続けているスポーツ
でしかありませんでした。

5歳の時に開催された、2002年の日韓ワールドカップは、
兄と父に観に行こうと誘われるけど、
おうちのほうが好きだった僕は家でお留守番を希望する。
僕の中でのサッカーはそれぐらいでしかありませんでした。

憧れの選手を見つける

誰しも好きな選手、スポーツに限らず、
芸能人や身近な大人などいるかと思います。

コンテンツへの入り口
は、コンテンツそのものが面白いというよりは、
そうした人物がきっかけになることのほうが多いと僕は感じています。

前述のとおり、サッカーが自分の中で重要でなかった僕ですが、
強烈に憧れる選手を10歳(2008年)の時に見つけました。
その選手は、当時ジュビロ磐田に在籍していた
中山雅史選手(当時40歳)です。

中山選手との出会いは、袋井市にあるエコパスタジアムに
ジュビロ磐田とガンバ大阪の試合を見に行ったことがきっかけでした。
当時、Jリーグに対して、あまり興味がなかった僕ですが、
母親以外はみんなジュビロサポーターの環境で育ったため、
なんとなくジュビロが好き。そんな程度。(母親は清水サポーター)

そんな僕を、同じサッカースクールに通う友達のお父さんが
「Jリーグを観に行こう!」と誘ってくれました。

初めて親以外と行くスタジアム。
初めて友達と行くスタジアム。
最初は、そんな初めてに対するウキウキ感が勝っていました。

もう12年も前のことなのであまり内容までは覚えていませんが
強烈に印象に残っていることは、
太田吉彰選手の横パスを中山雅史選手がトラップし、
倒れこみながらゴールを決めたこと

このシーンだけは、強烈に覚えています。

試合終了間際2-0でリードしている場面での3点目。
勝利を決定づける1点かもしれませんが、
劇的逆転ゴール!というわけではありません。

しかし会場の歓声の大きさは、聞いたこともないぐらいの大歓声でした。
ジュビロといえば中山
そんな認識はなんとなく自分の中に刷り込まれていましたが、
その歓声の大きさを聞いて、
初めてジュビロにおける中山選手の偉大さ、愛され具合
自分の目と耳、身体で実感しましたし、サポーターの本気を感じました。

また、中山選手が試合後のインタビューで
「あれは、フェイント」
と語っていたのも印象に残っていて、
それを聞いて親しみやすいキャラクターだと思ったのでしょうか、
どんどん中山選手の虜になりました。

中山選手のユニフォームを後日親に買ってもらい、
気に入ってずっと着ていたのを今でも覚えています。

憧れの選手、突然の退団発表

初めて見つけた憧れの選手にルンルンだった僕は
毎週欠かさずジュビロの試合をチェックし、
他チームの情報収集のため週末のJリーグタイムや、
選手名鑑を何度も何度も見返す日々でした。
(2008年の入れ替え戦も思い出深いですが割愛。)

しかし2009年シーズンも終了間際、
中山選手の退団が発表されました。
昨年、田中誠選手をはじめ選手の移籍は
プロ選手につきもの
というのはわかっていましたが、
とてもショックを受けたことを覚えています。

しかも、「引退」ではなく「移籍」……。
引退なら、コーチやスタッフとして残り
生涯磐田を貫くことになったでしょう。
しかし、当時の中山選手が選択したのは、
現役にこだわり移籍をすることでした。

あまりクラブ間でのライバル意識に対して
頓着のない僕ですが、
クラブのアイコン選手がほかのクラブのエンブレムを胸に戦うことには
とても抵抗がありました。
(たとえそれが好きなクラブ間での移籍であったとしても)

さまざま思うところもありましたが、
中山選手の退団に関する記事、コメントなどを
読んでいくうちに、気持ちの整理がつきました。

その頃から、出られるところに行くのが選手として一番幸せ
という考えを持つようになりましたし、
なにより、まだまだゴンゴールが見たい!
僕自身も思っていました。

ジュビロの中山、ヤマハスタジアムでのラスト(?)

退団が発表され、最後にどうしてもヤマハスタジアムに行きたい
母親にお願いし連れて行ってもらいました。

別のクラブの選手として帰ってくるかもしれない、
名波選手みたいに戻ってくるかもしれない、
でも絶対に見届けたい。そう思いました。

ホーム最終戦の相手はサンフレッチェ広島が相手でした。
当時の順位や勢いは覚えていませんが
「調子乗り世代」と呼ばれていた
柏木選手、槙野選手、森脇選手らが
勢いのある若手として試合に出ていて
それらを支える森崎兄弟に、エース佐藤寿人選手もいました。

試合は内容はあまり覚えていませんが、
前半の中頃にわりとあっさり
佐藤寿人選手に点を取られてしまい
そのまま敗戦。


中山選手は途中から出て
惜しいヘディングがあったのは覚えています。

僕が印象に残っているのは
その試合終了後の出来事です。

2009シーズンホーム最終戦ということもあり
セレモニーが行われました。
(ホーム最終戦は全選手が並んで、キャプテン、監督から挨拶があるのが、大体どのチームも通例です。)

チームのレジェンドである中山選手ももちろん
スピーチがありました。

何を話していたかまでは覚えていませんが
めちゃくちゃ泣いたのだけは覚えています。

さらに、中山選手はスタンドに飛び込んでいたり、
磐田サポーターだけでなく広島サポーターからも
中山コールが止まらなかったこと
を覚えています。

会場にいる別クラブを応援するサポーターが
1人の選手の名前をコールする

今思い返せば、似たような事例はいくつもあるかもしれません。
しかし、当時小学6年生だった僕からしたら
サッカーの素晴らしさ、サポーターの持つ力

初めて体感した瞬間でもありました。

最後に

長くなってしまったので、憧れの選手中山雅史選手が
磐田を退団するときまでの思い出を綴りました。

僕がサッカー好きになったきっかけは?と聞かれたら
真っ先に浮かぶのは中山選手です。
中山選手がいなかったら、どこかでサッカーを辞めていたかもしれない。
それぐらい、僕が影響を受けた選手です。

スタンドの位置こそ変わりましたが
また、ヤマハスタジアムで
「中山隊長、ゴンゴール!ゴンゴール!」
と大きな声で叫べる日が戻ってくることを願っています。

中山選手のことについては
本当はまだまだ書きたいことがたくさんありますが
また別の記事で書きます。

ではまた。

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