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〖naked〗 

naked。
ネイキッドと読み、「裸の、むき出しの」という意味をもつ英単語。

この単語を冠にかぶった「ネイキッドケーキ」なるものがケーキ界にはある。スポンジ部分をクリームで覆わない(あるいは、透けるくらいの少量だけ塗られた)、まさに「裸の」ケーキだ。

“飾らずにいる” ということは、ほんとうにむずかしい。こと、ケーキと文章においては、なおさらそうだと感じる。

スポンジというのはたいへんに扱いがむずかしく、割れたりぽろぽろと崩れ落ちたりという事件がまま起こるのだけれど、クリームをていねいにナッペして(もちろん、このナッペにも物凄い技術がいる)しまえば、たいてい事件のことは隠蔽できてしまう。

また、スイーツというジャンルは、食べものの中でも見目麗しさによる加点率が高い。繊細なチョコレート細工や、つやっとしたナパージュがそろえば、なんとなく「価値あるもの」と思えるものだ。

実際、装飾に力の入ったお菓子はほんとうにおいしいことが多い(これは、わたしの見解によると、手先の器用さに相関がある)のだけれど、一方で、それほどの実力があるパティシエであれば素朴で飾らないお菓子をつくっても、きっと変わらずおいしいはずなのに、あまり見かけない。

文章もそうだ。

飾らないということはほんとうにむずかしい。とりわけ、誰かに見せる文章となると、表現をこねくり回して、つい難読漢字を使いたがってみたり、知らない英単語を使ってみたくなる。格好をつけた比喩表現を披露したくなる。これは、ぜんぶ、わたし自身の話。

読者として文章に触れるときも「飾っているな」と感じることがままある。わたしは、小説の次にエッセイをよく読むのだけれど、うーん、これはたぶん、この人が本心から並べている言葉じゃないな、と思ったりする、結構。

そうなる理由も、よくわかる。
主語を大きくしたり、比喩表現にこだわれば、なんだか壮大なことを言っているように一見見える。さざ波の感情を、津波のように表現すれば多くの人を巻き込めるから。さざ波程度の感情を拾い上げて言葉にしたところで、それほど価値がないのではないかと不安になるのだ、たぶん(わたしはそう)。

だけど、ほんとうはさざ波の感情こそその人の本質で、そこに触れられたときにぐっとくることも、わたしはよく知っている。

津波はそりゃあ、インパクトが大きいけれど、大多数のひとが津波を見たら「怖い」って思うようにインパクトの分感情が均質化されてしまうような感じがあって、逆にさざ波に心を揺らすか揺らさないか、たとえば「癒し」と感じるか「寂しさ」と感じるかには、かなり個人差があるように思う。

つまり、さざ波に対する感情を、飾らないままに言葉にできるひとの言葉は唯一無二なのです。そういうひとの、放つ言葉が、わたしは狂おしくすきだ。


と、ここまでが長い前置きで。

最近、フードエッセイスト・平野紗季子さんの最新刊『ショートケーキは背中から』を読みました。

わたしにとって、平野紗季子さんは、先述の言葉を使うなら「感情のさざ波」を拾い上げて言葉にするのがほんとうにうまい稀有な方で、このひとが食に対してつむぐ言葉たちは、すべて真摯で嘘偽りがなく、その点で唯一無二の輝きを放っているなと思う。

彼女がつむぐ言葉たちの主語はすべて彼女自身で、「飲食業界は〜」とか「20代女子は〜」などと大きく広がっていかず、どこまでいっても、彼女自身の感じたことを彼女自身のものとして扱っているところもいい。

それでいて、読み手にどう思われるかというところに無頓着な伸び伸びとした自由さがあって(実際のところはわからないけれど)、「他者がどう言おうがわたしにとってはこうだ」ということを言葉にするだけの芯があるところも、いい。

このひとは、食を前にする限り、どこまでもその感性と、それを表現する豊かな言葉たちを翼にして飛んでいけるひとだ、と感じて、その自由さがうらやましくて、泣けてきたりする。


ここからは、本文から印象的なところを引用したりしながら、感じたことを書き留めていく。

私が神か仏なら、お供え物には京都の〈Kew〉のカスタードドーナツをリクエストするね。他人とは思えないふっくらフォルムにパンパンのピュアなカスタード。ほんの少しクリームのはみ出たてっぺんから頬張れば、砂糖がしゃりしゃり鳴りながら生地がほどけてカスタードの優しい甘さが口いっぱいに広がる。ヘヴン。あまりのことに有頂天になりながらもう一口。夢中で食べ進めていたらあっという間になくなって、セーターに散らばった砂糖のきらきらまでもが愛おしかった。

『ショートケーキは背中から』p.20

天才だ!
わたしは〈Kew〉のこのドーナツを実際に食べたことがあるのだけれど、こんなにも、あのドーナツを食べた瞬間の軽やかにスキップして走り出したくなっちゃうような気持ちを、言葉にして取り出すことは、たぶん一生できないです。

つむがれた言葉すべてが言い得て妙で、読んでいるあいだに口の中に、あの日食べたドーナツが再現されていくような心地がした。

平野さんの文章は(本人もどこかで仰っていたけれど)「味の保存」って気がする。食べたらなくなってしまう、悲しきフードたち。その最もきらめく瞬間を閉じこめて、言葉に昇華する天才だ。

食後感は後味の悪い映画のそれと似ていたが、むしろハッピーエンドだけを食に求めること自体が食を総合芸術として見るならば保守的な態度だとも言える。フードは遅れてる。フードはもっといろんな可能性を秘めている。もっとごはんで傷ついたり悲しんだりしたい。

『ショートケーキは背中から』p.50

ヤバァ(いい意味で)。わたしはこの域には行けない。わたしも食べものも食べる行為もかなり好きだと自負していたけれど、この域には行けないや。
わたしにとって食べることは、幸せになることと同義だもの。傷ついたり悲しんだりしたいって、そりゃあ、純然たる愛だよ。負けました、とふつうにここで降参して頭を垂れた。


とにもかくにも一節一節が魅力的で、きらきらと踊るような言葉たちがうつくしくて(まさにネイキッドなうつくしさ!)読んでいてこんなにもうきうきとした楽しさを覚えたのは久しぶり!

ちなみに平野紗季子さんのポッドキャスト『味な副音声』もとてもとてもおもしろいので、ぜひ。

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