コンヴィヴィアルなテクノロジーを考える: 再帰的な学習という技術の本質とコンヴィヴィアル

今晩の技哲ナイト!に向けて音声を吹き込んで起こしたものをアップします.


コンヴィヴィアルテクノロジーとは何でしょうか?コンヴィヴィアルテクノロジーとはという問いを問いかけると,何かコンヴィヴィアルという共通した尺度があるということや,さらにはテクノロジーというものが何か一つの概念であるように,印象を受けます.けれども,コンヴィヴィアルというものも,テクノロジーというものも,何か共通で普遍的なものというわけではないわけです.例えばユクホイは何か一つのテクノロジーがあるように,技術論では語られるが,それを間違っているとテクノダイバーシティという話を通して語っています.

またコンヴィヴィアルやウェルビーイングの議論がありますが何か普遍的なウェルビーイングがあるわけではなく,それぞれにウェルビーイングというものを実現するということしかないというふうに,考えられるわけです.コンヴィヴィアルも同じようなことが言えるでしょう.したがって何か共通した尺度でコンヴィヴィアルテクノロジーというものがあるように考えていくと,思考停止に陥ったり,また間違った答えを導き出すことになると思います.

あるのはおのおののテクノロジーとの関わりの中で,コンヴィヴィアルなあり方が,その都度,生まれる実現されるということだけでしょう.例えば,自転車はコンヴィヴィアルだと言われますけれども,もしも例えば,その自転車に乗ることで課税されたり,また自転車というものの目的が何か支配的な目的にだけ使われるとか,例えば競技用の自転車に乗っている人というのは,もしかしたらコンヴィヴィアルじゃないかもしれません.

逆にAIというものはコンヴィヴィアルではないように思われますけれども,必ずしも普遍的に常にコンヴィヴィアルではないというわけではなく,使い方次第でAIもコンヴィヴィアルになりうるわけです.AIに関して言えば,支配的なAIではなくパートナーのようなAIドラえもんAIとか言われていますけれども,そういうイメージのAIというのは,もうコンヴィヴィアルなものになりうるわけです.そして,また気をつけなければならないのは,そのテクノロジーAIというものも,AIというものも一つではなく,またいろいろな見方によって,そのとらえられ方が変わるというような,複数安定性(multi-stability),の話でもなく,そもそも地域や文化によって違うテクノロジーを使っているという可能性から考える必要もあります.

また,これは簡単にAIを始めテクノロジーは使い方次第で,ウェルビーイングやコンヴィヴィアルになるのだと言う単純な話ではなく,また,一方で,AIなどが全くそれがコンヴィヴィアルではなり得ないとかウェルビーイングになり得ないという話でも当然なく,なにかオルタナティブな考えを言おうとしているわけです.

どうしても一つのテクノロジーとして考えてしまうと,楽観的か悲観的か,道具主義的か,技術絵決定論的かのいずれかに属する,一つのテクノロジーを想定したテクノロジー観にその考えが引っ張られていってしまいます.例えば,ゲシュテルとか,例えば,シンギュラリティとか,AIが人間の知能を超えるとかいったテクノロジーの捉え方,テクノロジー観というものはあくまでやはりテクノロジー観であって,テクノロジーそれ自体の本質の話からはかけ離れているのかもしれません.

というわけで,テクノロジーというものの概念や,その使用またその使用のされ方に関して,もう普遍的なやり方があるという考えを完全にここで解体したとしましょう.そこから考えましょう.解体したところから考えましょう.そうなると,もう個別にしか問うことはできなくなります.なので,実際にコンヴィヴィアルなテクノロジーが実現されるということはいかに可能か,いかに実現できるのかということから考えてみましょうということになります.単に概念を追うのではなく,実現について問うわけです.

そのときに,以前技哲ナイトでも取り上げた再帰的な学習としてのテクノロジーの本質,ないしは技術の本質ないし生きる知恵としての技術のあり方というところから考えることができるでしょう.

テクノロジーの本質というのはその本質が技術であるということから,そして技術というこというものは,生きるための知恵,よりよく生きるための人間の営みの中で培われるものなので,テクノロジーというものも,そうした,よりよく生きるための技術として本来存在している,またはそう存在すべきだということになると.

そして,今度はこれが普遍的であろうという話に持っていける可能性が出てきます.何か普遍的なテクノロジーが存在し,あるべき姿が存在してるという意味ではありません.人間がテクノロジーを使うときのそのありようは普遍的によりよく生きるために使うものでしょうという意味です.つまり,本来,テクノロジーを使うとき,これは道具でも同じですけども,それは自分自身の人生,生がより良いものになると思うからこそ使うわけです.何かAIを新しく使うことでより良い仕事ができる.何か車を乗ることでより自分のやりたいことが実現できるからというわけです.

しかし,そのときに,往々にしてテクノロジーはより良い人生のためのものになっていません.そのテクノロジーがただの手段になり,そう認識されます.車も何か例えば時間を短くするため.歩けばいいのになるべく時間を節約するとか面倒くさいからとか言ってという理由で,つまり時間を短くする自分の労力を減らすための手段としてのみ機能しているということがよくあります.

AIに関しても,自分で考えるのが面倒なので,より効率的に考えるための手段としてのみ使っているということが往々にしてありますと.そうしたあり方は,技術というのは生きるための知恵だという考え方から離れてしまっていてただの手段になってしまっているあり方だというふうに説明することが可能になってくるのではないでしょうか.

道具やテクノロジーは,
1.手段として用いる,つまり,使役するもの,使用するものという考えと,

2.そうではなく,それは生きるための知恵なのだ,生きるための機能なのだ(生きるための機能をよりよく働かせるという知恵もそこに必ず働くので技術というのはよりよく生きるための知恵なのだ)という考え,

この二つが,道具やテクノロジーを使う時にありうる態度ではないかと思います.

どちらが本質的なのでしょうかと.(これを二つの道具性と整理してもいいよのですが)

このときに,人類というものは,ただ何かを手段にして目的を実現しているというよりも,さらにその再帰的な学習によって,何か発展的に変化していくために存在しているということの方が,自然な見方だと思います.これは要するに,生物としての進化というふうに言ってもいいのですが,人間というものも進化していってるわけです.それが必ずしも今言ったような発展というかプラスの方向に進むとは全く限らないのですけれども,いずれにせよ動的に常に変化し続けていく.その動的な変化っていうのは再帰的な学習というものによって行われていると考えられるわけです.

そうなると道具性の1.はその再帰性の中に回収される,つまり道具やテクノロジーの手段としての機能は,2.の再帰的な学習のサイクルの中に位置付けられることになります.そして,そのテクノロジーを使うという再帰的な学習のプロセスの一つのあり方が,よい再帰性の学習のあり方にならないあり方になっている(単なる手段としてテクノロジーが埋没し,例えばテクノロジーへの反省がない状態になっている)と反省可能になります.

次に,この学習という本質,テクノロジーの本質が見えてきたときに,それがコンヴィヴィアルなものであるということはどういうことなのかということになってくるわけですが,それは当然その人がよりよい生を実現することになっているかどうか,つまりそのテクノロジーとともに行為をするテクノロジーという行為をすることで,よりよく生きることになっているのかどうかということが,尺度になってくるわけです.

なので,決してテクノロジーそれ自体がいいとか悪いとかいう話ではなく,テクノロジーとともに行為するそのあり方そのときにテクノロジーと人間は一体になっていますので,サイボーグ的あり方になってるわけですけれども,そのサイボーグ的あり方,テクノロジーと行為するそのサイボーグ的あり方をどう評価するかということ,コンヴィヴィアルかどうかとで評価可能かと思います.

では,そのコンヴィヴィアルなサイボーグ状態っていうのはどういう状態なのかということになってくると,これは端的にウェルビーイング状態かどうか,これ哲学的な意味でして,何か幸福感を感じているとか,何か欲求を満たしたからとかいうことではなくて,哲学的な意味の中でウェルビーイングかどうか.

哲学のウェルビーイングの三大説っていうのがあるのですが,快楽説,欲求充足説,客観リスト説です.実は,そのどれに対しても私は批判的な立場を取るので,そのどれでもないウェルビーイングになるのですが,一応客観リスト説には含まれるかなという形なのですが,その人が,そのテクノロジーとともに生きるつまりサイボーグとして生きるそのあり方が言うなればオーセンティックなもの,例えば自然と調和しているとか,生命性をより発揮しているとか,そういうあり方がウェルビーイングだということになってくるわけですが(詳細はまた),そのウェルビーイングなあり方を実現するようなテクノロジーとの関係を作っているならばコンヴィヴィアルなサイボーグ状態だというふうになると思います.

それを次にいかに実現するのか,どういうふうに実現するのかですが,そのためには,当然インタラクティブな再帰的な学習が可能な状態のテクノロジーでありデザインが求められます.例えば修理する権利とか,あとプラットフォーマーに依存するような形じゃなく例えばWeb3的なものとか,デジタル空間における主権が維持されるようなデータポータビリティを配慮しに配慮したデザインになっているとか,もちろんその環境への配慮がなされているかとかです.自分自身がよりよく生きるためには,常にその他者との相互依存性がありますので,その環境を含めた依存先をもより良いものにするようなあり方である必要があるわけですけども,そういうあり方を実現するものになっているのかどうかなど,そういうことが問われてくるわけです.

もう一つ重要なのが,そのテクノロジーを使う方側の人間の主体性を取り戻すために,テクノロジーの教育を小さい頃から十分に行うことです.

このような全体観でコンヴィヴィアルなテクノロジーさらにウェルビーイングなテクノロジーについて考えていきたいと思います.


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