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顔ファンがなぜ嫌なのか

 自分の推している何かが世間的に売れると、嬉しい半面複雑な気持ちになる謎のファン心理。対象がお笑い芸人やスポーツ選手など「顔」以外の何かに秀でた人たちである場合、売れてから流入してきたライトファンは古参から「顔ファン」などと揶揄されることもある。これについて考えたことをつらつらと書いてみる。



何かを好きであるということ

 何かを好きでいつづけるということは、その対象に対してだけでなく、少なからず「それが好きな私」というアイデンティティそのものに対しての愛着であると思う。

 芸人やアーティストが売れたときによく聞く「顔ファンが増えて嫌」というのはつまり、「𓏸𓏸が好きな私」というところに「他人とは違う自分」の個性を見出していた状況だったために、ほかの新規ライト層=世間が流入してきたことで、それまで見出していた自分の独自性が揺らぐことに危機感を感じている状態なのではないだろうか。

それでせめて「新規ライト層=顔ファン」と蔑んだレッテル貼りをすることで、自分の個性を「𓏸𓏸を”本来の意味で”好きな私」というふうにギリギリのところで自分の独自性、アイデンティティを守ろうとするのではないか。

 ファンダムに放り込まれる「ファン」

こうした顔ファン問題について、令和ロマンのくるまさんが下記のようにコメントしているのを見た。

俺がカッコいいかどうかは関係なく、まさか論争になるなんて思っていなくて。ここまでお笑いファンの自己肯定感が低いと思わなかったです。事態は思ったよりも悪化しているなと思いましたね。
自分の好きは〝自分の好き〟でいいじゃないですか。自分がネタが好きならそれでよくて、「顔ファンと一緒にされたくない」って意味がわからない。自分の趣味にすら自信が持てない国になったの?なんか悲しいですね。

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おっしゃる通りだとは思うが、実際問題として「私が好きだからそれで良い」と割り切れないファン心理はある。何故なのか考えてみたい。

SNSの発展もあり、何かを好きでいること・推すということは自分の中で完結する問題ではなくなり、ほぼ不可避で「他の多くのファンの存在」が目に入る状況になった。すなわち何かを好きになるということは、ほとんどイコールで「そのファンダムのなかに身を置く」ということになる。
これにより、好きな対象そのものに対して費やす感情以上に、「その対象を好きな私」という、そのコミュニティの中でのアイデンティティ確立に費やす感情の比重の方が多くなってしまっているのではないか、というのが私の考えだ。

SNS発達以前は、「𓏸𓏸が好き」と言ってもそれはほとんど自分の中で完結する問題で、せいぜい周りのリアル人間関係の中での自分のアイデンティティ・キャラ付けになる程度だったはずだ。好きな人同士で集まってコミュニティを作るにせよ、そんなに大きな規模にはなり得ない。だから「その対象に対して自分がいかに狂っているか」を披露する場がそんなにないし、競争相手もそんなに無い。

しかし今、「𓏸𓏸が好き」とネットで言えば世界中の「𓏸𓏸が好きな人々」のなかに飲み込まれる。
「自分がいかに𓏸𓏸に狂っているか」を世界中に対して(あるいは好きな対象がアイドルなど人間である場合、その人本人に対して)披露することができるし、そのぶん競争相手も大勢いる。そのなかでそれでも「𓏸𓏸が好きな自分」というアイデンティティを守るには何かしら(たとえばグッズの所持量やライブ参戦回数など)で突き抜ける必要があり、相当の努力がいる。
 
昔は「何かを好きであること」そのものが(少なくとも自分を取り巻くコミュニティの中においての)キャラ付けになっていたのに、SNSの発展で多くのファンの存在が可視化され、何かを好きであるというだけではなんのアイデンティティにもならない現在では、「何かを好きな自分」というアイデンティティの根拠として「どれだけ好きか」という点で優位性を保たないといけないのである。
くるまさんのいう「自分の趣味に自信を持てない」現象の根源はここにあるのでは無いだろうか。

上がり続ける「ファン」のハードル

何かを好きであるということは往々にして、単純にそのものへの好意を持つということだけにとどまらない。「𓏸𓏸を好きである自分」にアイデンティティを見い出し、それを通して「自分はこういう人間だ」ということを語りたい欲求は、今も昔も誰にでもあるものなんじゃないかと思う。人間、「いかに自分が何かに夢中になっているか」を主張したくなるものなのだ、たぶん。

しかし、SNSの発達により直面するコミュニティ規模が大きくなりすぎたせいで、「いかに自分が何かに夢中であるか」の主張のハードルが高くなりすぎてしまった。

だからこそ、「自分が好きならそれで良い」とわりきることも難しくなった。「𓏸𓏸が好き」というアイデンティティを認められるためにグッズを買い(これもSNS発達により競走のように「ファンなら持ってて当然」のハードルが上がっている)、ライト層が大量に入ってくれば「私たちは真のファン、お前らは違う」と線引きして「𓏸𓏸のファンである」というアイデンティティを守ろうとする。

ファン心理を利用した推し活ビジネス

さっき「人間、誰しもなにかに夢中になっていると主張することで自分を語りたいものだ」と書いたが、いまの推し活ブームはちょっと度が過ぎているというか、その欲求を利用してシャブ漬けにするようなビジネスになっていると思う。「何かに対して魅力を感じる」こと以上に、「何かを好きでいる私」というアイデンティティを確立させることに躍起になっているように見える。
元をたどればAKB総選挙あたりから顕著だ。コンテンツそのものの魅力を磨くこと以上に、「そのコンテンツに沼らせる=そのコンテンツのオタクであるということにアイデンティティを見出させること」のほうに力を入れ、かつ周りの他のオタクとの競争を煽ることで売上を上げる。「𓏸𓏸のファンとして𓏸𓏸を勝たせなければいけない」という役割意識、「こんなに積むほど狂ってる俺」というアイデンティティに酔わせるのだ。

「自分が好きならそれで良い」と自信を持つのはなかなか難しい状況がある。ましてや昨今の推し活ビジネスは、「自分が好きなら良いでは済まない」というファン心理を利用してますますお金を落とさせようとする構造になっている。

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