世の中は、甘いものでできている。
「あんまり彼氏できてほしくないって思ってるんだよね」
スープカレーを頬張りながら、友人はわたしに向かってそう口にした。それこそ勝手な話なんだけど、と付け足して。(一応補足しておくが、その友人には彼氏がいるし、わたしも恋愛対象は異性である)彼女は甘えるのが上手である。「聞いて」とわたしに愚痴を言ったり、「今日泊めて」となんの不快もなくわたしの日常にまぎれこんだりしている。この甘え、わたしはとても羨ましい。
甘えといえば、友人と連絡を取りながら「わたしたち、甘えるのが苦手すぎる」という話になった。強がって溜め込む癖がある。思い切って甘えても苦いコーヒーしか出されたことがない経験があると、甘えるのをやめてしまう。かといって大量のスイーツを出して欲しいわけじゃない。人はそれを時にトラウマとよび、次の一歩へのハードルが高くなる一方である。
甘えやわがままを忘れてしまうと、意見すらないように思えてくることもある。Aと主張する人がいて、Bと主張する人もいる。それをどちらも「良い」と思うことだって立派なCという意見にもかかわらず、AかBかで選ぶのが正義だという世の中があまり好きではない。本当に考えるのを諦めてCと言う人もいるけれど、この場をどうまわすかを見据えて、覚悟を持ってCだと主張する人だっているのだ。
かつてはわたしもAが正義ならそれが答えだ、というような人間だった。でもそれによって人を傷つけ、自分も傷つけられ、言葉を失ったこともある。だからこそわたしは、自分の意見があったとしてもそれを容易に口にできない。
意見を言える場だって、意見を言っても許される「受容」という、誰かが生んだ甘さから生まれている環境だし、頑張ろうと思えるのもきっと「あのとき休憩したから今は」という甘さに起因するもの。行き過ぎた甘えは「過保護」になるけれど、世の土台は甘えでできているのだ。甘えによって生まれたものが、どうして甘えを否定してしまうのだろう。正義なんて人によって違って当たり前なのに。
だからこそ、わたしは誰よりも言葉が好きなのだ。生きる死ぬを除いて、人の心を一番大きく動かすものが言葉だからこそ、一生向き合っていきたいと思う。わたしを傷つけたのも、わたしを救ってくれたのも言葉だったから。勇気を出して口にした言葉をすぐに却下されて次の一歩を踏み出せなくなった人、肯定されなくて命を捨ててしまった人、人生を諦めてきた人を見てきた。だからわたしは一旦の「肯定」という甘えを絶対に通していきたいのだ。そこで何かの相違や不穏なものが生まれても良いと思っている。それが、わたしの中の覚悟だからだ。
言葉は、戻ってこない。
言葉といえば、2年ほど前に公開されたアニメ映画「心が叫びたがってるんだ。」が好きである。つい先日公開された実写版では「最高の失恋は、きっとあなたを強くする」というキャッチコピーで売り出しているが、物語の本当のテーマはそこではない。「最高の失恋はいい経験になるよ」というフレーズに惹かれる世代に向けて、「言葉とどう向き合うか」を伝えたい、そんな映画だと思っている。言葉と向き合うことを忘れては生きていけないこの社会。一度、ぜひ観て欲しい。
彼氏できてほしくない、という友人はカレーを食べた帰り道にこう続けた。「彼氏できたら、今のこの時間とか話を聞いてくれる時間が減るやん?それは嫌や」とあたかもわたしの彼女なのか?という発言をする。一般的に見るとこれは友人のわたしに対する一方的なわがままである。でもわたしはこのセリフを聞いて嬉しかったのだ。だってわたしもその彼女のわがままに甘え、「だから今は彼氏いらないか」とこの状況に甘えているのである。程よいわがままは、時に甘さを生むのだ。出されたブラックコーヒーをそのまま味わうもよし、ミルクやはちみつを足すもよし。自分に必要な味に、甘さにできる人間こそがどんな状況でも「今日もがんばろう」を生み出すことができると思う。そんなわたしが今これを書きながら飲んでいるコーヒーは、ミルクたっぷりマイルドなものである。
読んでくださってありがとうございます。今日もあたらしい物語を探しに行きます。