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混沌の春

回送のバスが走り始める午前四時。三十分も経てば端が染まり始めてしまう季節は、間違いなく春だと思う。寝起きのパジャマでゴミ出しに行っても心地良いくらいの気温と、朝の挨拶を交わせるくらいの余裕はある。


人と向かい合う時、わたしたちは無防備だ。経験の順序による偉さなど存在しない。順序によって生じるルートの差異が影響を及ぼすのは自分への方向のみであり、他人には向かない。向かい合ってしまった瞬間、経験の手札は整列の意味をなさない。わたしが体験したことはきっと誰かも通る道であり、通った道である。そこに優劣はなく、フェアであり、感情は一つも重ならない。向かい合った瞬間から経過した時間だけが、相手と自身に等しく蓄積される。比べる材料もないのに経験の手札をトランプのように出していくのは、永遠に引き分けが続くポーカーのようだ。でも、そんなことで勝敗を決めようとするおかしな話が街の角で、ネットのどこかで繰り広げられているらしい。

背負うものの多さで、主人公になれるわけじゃない。覚悟の強さだけが、その道を道たらしめる。それは確かな事実だと、わたしはずっと信じている。

理不尽だと思う。感情任せの押し付け、根拠のないなにか、得体の知れない絶対。好まないからと選ばれなかった不要不急に行き場はなく、途方に暮れる。それに救いはあるのに。超青い、って思うけど。 

怒ることは怒鳴ったり、感情任せに主張することだけなのだろうか。だって、穏やかと怒りは共存できる。コップに入れ続けた水が突然溢れるのもそれ。


どこかで静かな戦争が始まっている。彼らは手札を繰り直し、掛け声とともにポジティブを投下する。静かな怒りは投下され続ける。穏やかな面をかぶって忍びよる、淡く濁った混沌の春。


読んでくださってありがとうございます。今日もあたらしい物語を探しに行きます。