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読書という保険

不安を理由に決断をしない。本に学んで今でも覚えていることなんて、これくらいのこと。読書に意味はあるのか……という会話を何度も聞く。本に救われた人もいるだろうし、読むことを諦めてしまった人がいることも知っている。日常にない気持ちを味わえたり、誰かの考えに触れることの必要性だったり……分かる、それもいいよね。けれど、思い返せば読書に意味を見出すとすれば「必要な時に助けてくれる“かもしれない”もの」である。貯金に近い気もする。誰かが「読書は平面の知識の積み重ねだ」と言っていたし。つまりそれが面になるのだということを、この歳になってようやく実感している。


小学生。みんなが流行りのゲームを手にしている頃、我が家にはゲーム機がなかった。スーパーマリオブラザーズも、どうぶつの森も、ドンキーコングも友達の家でたまにできるくらいだった。そうなると家での過ごし方は限られてくる。さらに、我が家は漫画も限られていた。たまに自分で買ってもいいものとして年相応の月刊誌を許されるくらいで、もうどうにでもなれと思った私が小学生の誕生日にねだったものは日本の歴史漫画全巻だった。歴史まんがを読むということは親目線でいう勉強にあたる(ことが多いと思う)ので、どれだけ時間を費やしていても邪魔されなかった……ということは?本だったらどれだけ読んでも何も言われないんじゃない?と、とにかく本を借りてきては読み漁った。図書館にわざわざいくのが面倒ではあったので、効率を重視して図書委員になるほどだった。以後、小学校高学年から高校卒業の間まで1年に1回は図書委員をすることとなる。

中学にあがると校区を出て自転車通学をするようになり、部活も運動部だったのでさすがに力尽きた。読書量は格段に減ったけれど、図書館に本があまりなかったことも要因かもしれない。けれど、休みにどこに行きたいかと言われたら本屋に連れて行ってもらい、本をねだった。そしてやっぱり本は買ってもらえるのだ。拒否されないということが子どもにとってどれだけ嬉しいことなのか、分かってもらえる気もする。

高校に進学して一番嬉しかったことは、図書館が別館のような扱いだったことである。本当にわざわざ行かないといけない場所で、こっそり秘密基地に行くような感覚だった。気づいたら図書委員長になっていて(仕事は特になにもない。ただ、年度初めに本を選定できるというご褒美のような特権がある)本はわたしにとって絶対的であり、裏切らないものと化していた。まわりが優秀すぎて勉強はパッとしなかったけど、本だけは読んだ。高校2年生の頃にはなぜか「文豪の脳内を覗きたい」という謎の欲求にかられ、なんとなく三島由紀夫に手を付けた。1年くらいかけて、全集を読破した。ちなみに、めっちゃしんどかった。隣にずっと辞書を置いて読むという経験を始めてした。この頃になるとさすがに親も「本より勉強しろ」と言い始めるわけだが、拒否されなかった時間の勝利である、全然めげなかった。家で読むことを減らして、外で読みまくった。塾とか学校とか普通にサボって本を読んでいました、ごめんなさい。

大学進学してからも文章を読む頻度は多分人より多く、話してもらうより文章で書いてくれ…その方がわたしには伝わる…と思った時期すらある。恋人の誘いを「その日は本読みたい」と返してしまった日には「じゃあ本の世界で生きてれば」と言われたことすらある。本面白いんだって。きみ読まないから分かんないかもしれないけど。という言葉は飲み込んだ。一応保険をかけておくと、常に本を読んでいるほどの読書家ではない。別に数を読んでいるわけでもない。ただ、一人の時間の割と多くを読書に使ってきた気はする。普通に人と会えば本のことは忘れて楽しくおしゃべりをするのが好きだし、一人で外に出て美術館や映画館にも行きたい。リアルには賞味期限があるしね。

大学進学を機に上京した頃から薄々気付いていたのだが、生きていくための手続きには書類が多すぎる。部屋を借りる時、何かを申請する時、確定申告なんか特に。基本そんなことはないが、空いている欄に記名するだけでは危ないこともある。そういう時、常になんかしらの文章を読んでいたので抵抗もなく読み進めることができた。わからない単語が出てきても、調べよ〜と思うだけで特にストレスはない。ま、三島由紀夫読んでた時より全然マシやな、みたいな気持ちになれる。そのおかげかもしれないと思った時は本当に感謝した。三島由紀夫先生ありがと〜!ちなみに、「肉体の学校」という作品が一番好き。未だに好き。


ここまで読書について語っておきながら、別に読書を勧めたいわけではない。普通に時間取られるし、仕事忙しかったら読む気失せるのも分かるし、正直効率の良い作業でもない。それに、本を読めと押しつけて活字が嫌いになっていくのは悲しい。ただ、救われることもある。何度も本を読むことで、自分の気持ちの変化に気づけたりするのは稀有な機会だとも思う。確定申告全部一人でできるようになったり、契約書見るの嫌じゃなかったり、小さな日常のストレスがそれほどストレスじゃないのは、本を読み続けたおかげかもしれないと思う。

大切な人が困っている時に助けてあげられる人間になるために学び続けるように、いつかの自分を助けられるかもしれないから本を読む。まあ普通に読書が好きなだけなんだけど、本を読むことで、無意識に保険をかけ続けている気がする。
活字と遊べるようになれば、だいぶ楽に乗り切れる場面があるということだけは、確信している。少なくともわたしはだいぶ救われている。
「小梅が通る」という作品をもう10年も前から毎年読み直している。「きみは書いて忘れられるからいいよ」という台詞を、たまに思い出してしまいながら。

読んでくださってありがとうございます。今日もあたらしい物語を探しに行きます。