自由について

この社会がどん詰まりの危機に差し当たっているとマスメディアが宣伝するたびに、この社会や経済の持続性や、安全保障が議論され、その度に私達の自由は制限されてきた。

ミッシェル・フーコーの監獄の誕生では、現代は、パノプティコン的規律社会だと指摘されている。パノプティコンは、監視塔の周りに独房を設置し、監視塔は外から監視員が居るのか分からない造りになっているため、囚人に規律が植え付けられるというもの。フーコーは、パノプティコン的な規律社会は、学校、軍隊、病院、会社等にも応用されていると指摘した。これらの場所では時間、空間、身体が監視され、コントロールされている。出社、通学する時間が決められて、施設の中に拘束され、同じ人間にも関わらず階級が定められてそれに相応しい振る舞いが求められる事から、時間、空間、身体がコントロールされるという点で、パノプティコンで社会にとり異常な存在である囚人が規律を植え付けられ正常な存在に戻すというシステムが、学校や会社等とも共通しているとされている。こうした権力が働くことで、社会が正常に保たれている反面、権力が過剰に働く事で、自由が脅かされ、生き辛さの原因にもなりうる。

少数の監視員が多数を監視するパノプティコンとは反対に、トマス・マシーセンは、多数が少数を見る、シノプティコン(見世物)なコントロールも無視できないと指摘した。マスメディアに権力が過剰に働くことによって、大衆に画一的なイデオロギーが植え込まれ、思考や行動がコントロールされる。

ジル・ドゥルーズによれば、現代は、監視の目を意識させ、いかに自由を奪うかに重きを置いた規律社会から、いかに監視の目を意識させず、自由に行動させる、管理社会に移行した社会だという。スマホやクレジットカード、の情報が追跡可能なように、或いはマイナンバーカードのようにある程度の自由が約束される代わりに、個人の情報は抜き取られ、政府や企業に利用ざれ、知らず知らずのうちに行動はコントロールされる。監視の目は一般人にもある。それは、ツイッター等のSNSそのものであり、会社、学校、病院、どこにでも存在する。現在に於いては、マスクをしているとかいないとか言う監視の目が顕著である。誠にくだらないのである。ここはもっとも自由から遠い場所に思える。マスメディアが植え付けたイデオロギーによって行動規範が決められて、人々はお互いに監視し、抑制し合う。そして一定の権力のあるものはその枠外に在ったりする。

そうした規律社会であり、管理社会であり、相互監視社会である現代は、謂わば社会を維持するため機能であるはずが、今や権力を維持するためシステムになって、人々を不毛な対立と軋轢を生んでいる。それすら、権力の維持に一役買っている。生きている限り、権力による規律と監視、管理は付いて回る。権力は大衆が無くては機能しない。だとするなら、自殺は、権力から逃走するための、或いは打ち倒す為の一つの方法と言える。もちろん、自分はまだ自殺を成功させたことはない。

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