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フランシス・アリスが氷の塊を押すだけの動画

メキシコ在住のベルギー人アーティスト、フランシス・アリスをご存知ですか?2013年に東京都現代美術館で個展が開かれたことで、日本でも広く知られるようになったアーティストではないでしょうか。

かく言うわたしもこの個展でフランシス・アリスを知ったひとり。当時関西に住んでいたのですが、なにかの雑誌で紹介されていた彼のインタビューを読み、これは絶対に見に行かなきゃ!と夜行バスで東京へ向かったのでした。東京へ行くのは初めてではなかったけれど、ちょうど同じ時期に原美術館ではソフィ・カルの作品が展示されていて、東京ってすごい!大都会だな!と思ったことを覚えています。


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フランシス・アリスはもともと建築を学んでいました。1986年にメキシコへ渡ったのも、兵役の代わりに参加した、メキシコ先住民の村を復興させるという社会奉仕活動のため。それ以来ずっとメキシコを拠点に活動しています。現地で建築家として活動するうちに、すでに物で溢れた街にこれ以上物質を加える必要はないと考えたアリスは、建築家からアーティストに転身することにしたのです。彼のプロジェクトの多くは、ときにひとりで、ときには住人を巻き込んで、何らかのアクションを起こすというもの。彼の行動を記録したビデオや写真は残りますが、街に何か物質的なものを残すことはありません。その代わりに街に”物語”を残すのだと言います。


こちらは彼の代表作のひとつで、ビデオカメラを回しながら砂嵐に突っ込んでいくというプロジェクト。10年以上続けいているそうでう。

お医者さんから「肺に悪いから、砂嵐に入るのをやめるか、タバコをやめなさい」と言われ、タバコをやめたのだとか。


こちらは”信念が山を動かすとき”という作品とその舞台裏映像。

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500名の参加者が1列になび、各々がシャベルで少しづつ砂を前へとかき出しながら進むことで砂丘を少しづらす、という試みです。 


そして数ある彼の作品の中でも、わたしが特に感銘を受けたのがこちら。

“Paradox of Praxis: Sometimes Making Something Leads to Nothing”

《 実践のパラドクス1  (ときには何にもならないこともする) 》

1997年の2月にメキシコシティで行われたプロジェクトで、大きな氷の塊が溶け切るまで、9時間以上氷を押しながら街を進み続けるだけ、と言う作品です。



初めは大きく重い氷の塊を全身を使って両手で押すアリス。次第に氷が小さくなるとタバコをふかしながら片手で押すようになり、そして最後は小石のように小さくなった氷を蹴飛ばしながら転がしていく。氷は溶けて水になります。9時間も押し続けたのに、結局最後には何も残りません。全く意味のない行動です。

これは長時間苦しい仕事を続けても、ほとんど稼げないというメキシコの社会状況を批判するパラドックスと読めるそうです。辛い仕事をしても、何も残らない。実は、仕事それ自体にも全く意味がなく、非生産的な行為を延々とさせられているだけなのではないのか?という批判とも考えられます。


と同時にわたしは、氷が最後に溶けてなくなるというのは、ある種の解放だと読みたい。

岡本太郎は言いました。『人生は”積みへらし”だ。人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。』と。

岡本太郎は著作の中で繰り返し、うまくやろうと思うな、常に恐れず恥ない初心者であれ、固定観念に縛られるなと説いています。しかし実際、生きるほどに賢くなり、失敗を恐れ、自由に自分を開くことができなくなっていきます。経験すらも積み重ねるごとに常識として我々を縛る足枷となるでしょう。

アリスが氷の塊を押すほどに、氷は少しづつ軽くなっていきます。氷が溶けきるまでただ押し続けるという全く無目的な行為に一心に取り組むことは、常識やありきたりな考えに毒され、盲目になってしまった現代人をしがらみを解き放ち、自由になるためのイニシエーションなのかも知れません。


子供の頃、学校からの帰り道、小石を蹴りながら家に帰ったこと、誰もがあるのではないでしょうか。それは全く生産的な行為ではありません。でもやってしまう。なぜならただ石を蹴りたいから。何の意味もない非生産性な行為を、ただやりたいからやる、そんなふうに、純粋に無意味なことに無目的に没頭する瞬間を持つことが、この瞬間に自分を解放することとなり、今この瞬間を生きること、つまり人生を充実させる鍵だと思うのです。

成長するに従って、私たちは生産的で効率よくあることを求められます。大人になってしまったら、もう小石を蹴りながら家に帰る時間はありません。そんなふうに時間に追われている時、いつも頑張っているつもりなのに漠然と何かが違うと感じる時に、一見ナンセンスなプロジェクトに黙々と取り組むフランシス・アリスの映像を観る。氷の塊を押すアリスの姿には、この瞬間の自分の直感と欲求に従って無目的に没頭する人の美しさ、今を生きる人の美しさを感じます。その美しさは、氷のように溶けてしまう儚い人生のこの一瞬に生きることを思い出させてくれるでしょう。



彼のアクションはどれも詩的だと思いませんか。しかし詩的であるとはどういうことでしょうか?わたしは詩的であるというのは余白を与えることだと思います。その余白の中に作品の余韻が残り反響し、その響きを味わうことができる。その余白の中でわたしたちは思考を巡らし、想像力を働かせ、そして自分自身と再会することができる。そんな余白を与えてくれるものが詩的であると感じます。

優れた詩人は詩の言葉に言葉以上の意味を与えるように、フランシス・アリスは単純な行為にそれ以上の意味を与えます。ただ大きな氷の塊を9時間押すだけの彼の映像から限りなく広がっていく余白の心地よさに、わたしはすっかり迷い込んでしまったようです。



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