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終わりなき漂流 ボート難民、日本に没す 「我々は人生において二度、難民になった」

 一九六〇年、ベトナム共和国で内戦が勃発する。米ソ両大国の介入によって、ソビエト の支援を受けた解放戦線側(北政府)とアメリカが支援する南政府とは激しく拮抗し、 内戦は泥沼化する。一九七五年、南政府の首都であったサイゴンが陥落し、北政府の弾 圧を逃れ、市民らは小さな船で東シナ海へと漕ぎだした。「ボート・ピープル」と呼ばれ た彼らのうち、これまでにおよそ一万人が日本に漂着し、日本各地で生活を続けている 。

 難民たちの漂流は戦争終結とともに始まり、今も終わらない。来年二〇二五年は、ベト ナム戦終結(サイゴン陥落)から半世紀の節目を迎える。

 元ボート・ピープル ティエン・ゴンさんの日本での生活をご紹介したい。ゴンさんが私にこの話を明かしたとき、末期癌で闘病中で、ほどなく日本の地で帰らぬ人となった。享年五七歳だった。


脱出はまず、二重底、三重底の特殊な船を建造するところから始まる。


 一九八二年。脱出に向けて、私は、メコン川へと向かっていました。ちょうど三〇歳に なったばかりでした。ベトナムの田舎道は、乾期に入ると、黄色い砂埃がすごいんです 。日本ではもう、そういう場所はあんまりないでしょう。ホーチミンから四時間以上か けて、まずは脱出する拠点に向かいます。なるべく脱出しやすい場所を選ぶんです。海 辺の海岸沿いのときもありましたが、このときは、メコン川からでした。

 だから、メコ ン川流域の都市ミートーをかすめて、そこからさらに、巨木に囲まれた、うっそうとし た森のなかをくねる道に沿って、奥へ奥へと入って行きます。 脱出用のボートに向かって行くんです。ボートはもう、何ヶ月も前から準備しています 。ボートは、あるものを買うわけではないんです。場合によっては造るところから始め なければなりません。ですから、脱出するための人を集めて、集まると、次に皆でお金 を出し合います。ボートを造るためのお金です。

 お金があったからといって 、持っているからといって、すぐに今日、明日に脱出できるわけではないんです。そう いう意味で、非常に計画的で、一ヵ月、二ヵ月でできるわけではないんです。半年も、 長ければ一年近くも待たなければなりません。見かけは漁船でなければなりませんし、 そこに、多くの人が入れることができるように、改造しなければならないんです。それに、海に出てから漂流しないように、エンジンも二つつくようにしたりと、そこも改造 しなければなりません。でも見かけは、普通の漁船と同じ様に偽装しないと、見つかっ たときにすぐに脱出のための船だとばれてしまいます。

 だから、何ヶ月も、一年近くも 前から準備して、それでボートが出来上がったら、それからまだ、脱出のタイミングを 見計らうわけです。 脱出するのは月のない新月の晩です。月の明かりがあると船が見つかってしまうから。 だから必ず、月のない真っ暗な夜を選んで脱出するんです。今回は、私にとって一三回 目の挑戦でした。このときは、ボートの長さは縦が一二メートルくらい。それを、二重 底、三重底に改造して、六六人が乗り込みました。そして、メコンの潮と時間を計りな がら、脱出します。引き潮のときがいいんです。メコン川の脱出が一番危険だと言われ ていました。検問で見つかってしまうと、殺されてしまうからです。

 小さな赤ちゃんを連れている人もいます。そうした人達は、赤ちゃんが泣きだして音を 立てないように、赤ちゃんに風邪薬のようなものを入れて目を覚まさないようにします 。無事にメコン川の検閲をかいくぐって海に出ても、まだまだ先は見えません。台風に 遭って遭難するボートも沢山ありましたし、海賊も沢山いるんです。ボートで脱出する と言っても、結局、どこに向かっているわけでもないんです。とにかく海に出て、どこ かの商船に見つけてもらって、それで救出してもらえるのを待つしかないんです。

 だか ら、脱出といっても、運頼みなんです。また、潮の関係で海辺に戻ってしまったり、エ ンジンが壊れてしまって、そのまま漂流したりといったことも多いんです。警察に見つ かっても殺されてしまいますが、うまく見つからずに済んだとしても、生きていける保 証はないんです。

 でも、とにかく脱出しなければいけないんです。 私は軍人で、サイゴンが陥落したときに大統領警護隊に居ました。その後、旧政府の高 官や下士官とともに、私も集められました。皆、トラックの荷台に載せられて、一週間 分の食料と服を持って、何日間もジャングルのなかを走って、場所のわからないジャン グルのなかに連れていかれました。そこで、銃を突きつけられて、今日からおまえたち はここで生活をしろと、そういうわけです。何か文句を言おうものならば、殺されなく とも、手錠をかけられますし、南政府の関係者らは、人の目につかないジャングルのな かに隔離されたんですね。

 戦争が終わった直後には、南政府の役人や兵士がやっぱり集められて、昔の共産主義と は違うので安心しろと、そんなことを言われたのですが、やはり、ほどなくして北政府 のもとで、ジャングルのなかの再教育キャンプに送られたんです。 常に銃を構えた監視の兵がいるのですが、私は隙を見て、そこを脱出しました。 それから、サイゴンに戻り、かつての軍人仲間を頼り、隠れるようにして生活していま したが、やはり南政府の関係者では、将来も決して明るくはないなと思うようになりま した。職業でも立場でも、北政府の人がいいところを占めるようになっていたからです 。

 私は結婚して、生まれたばかりの子供を抱えていましたので、その子どもの将来を思 うと、余計にそうした思いが募りました。南政府の関係者は、北政府のもとでは就職も ままならなかったんです。 失敗しながらも、諦めずに脱出の計画を練って行きました。計画が洩れてしまえば大変 なことになります。そもそも、私はジャングルの再教育キャンプから脱走してきたので 、サイゴンで生活していても、いつまた捕まってしまうか気が気でありませんでした。 ですから、計画は軍隊時代の友人らと一緒に考えていました。ボートの手配から、航海 図を手に入れたり、海賊の襲撃に備えて対戦車砲や銃を用意したり、もちろん、米や水 といった食糧も用意しなければなりません。

 一三回目の脱出となる今回も、そうした軍隊時代の友人たち二七人ほどと脱出する計画 でしたが、現地に行って驚きました。 六人乗りのボートなのに、なんと六〇人以上が集まっていたんです。どこからか話が洩 れたんでしょう。でも、予定にないからといって、彼らを置いていくことはできません でした。置いていくひとが出れば、そこから話が洩れて、検閲で待ち伏せされてしまう かもしれません。そうすれば、殺されてしまいます。脱出する人は、刑務所や収容所に 送られる前に、たいてい、その場で皆、射殺されてしまっていました。

 ですから、脱出 の計画を知って、一緒に脱出したいという人がいれば、一緒に行かなければ逆に危険に なってしまうんです。計画が洩れてしまうのだけは防がなければいけないんです。 ところが、そのときは海には台風が来ていて、検閲や警備の船が皆、港に避難していて 、運よく監視が手薄だったんです。もちろん、台風の大波でこちらが転覆してしまえば 、危ないのですが、手配していて積み込んだエンジンが丈夫だったのがよかったです。 ちゃんと動いたので、波のなかを操舵することができました。操舵は、海軍の将校だっ た友人がやっていましたので、その台風のなかを、警備の海域をなんとか突破すること ができました。

 当初の目的地は、マレーシアでした。でも、なんといっても、六人乗りの小さなボート に六五人もが乗りこんでいますから、あまりにも重くて、なかなか進まないんです。エ ンジンの能力を超えているんですね。 海の上では、米を生のまま食べたり、インスタントラーメンにお湯を入れずにそのまま 、麺をかじったりして飢えを凌ぎました。水も足りませんので、コーヒー豆を舐めたり 、コンデンスミルクを皆で舐めたりです。 台風の影響で、何日経っても、海はかなりしけていました。大きな船に見つけてもらっ て救出してもらうしかないんですが、何度か遭遇した船は、ベトナムに向かっていくソ ビエトの船だったりしたこともありました。それではベトナムに帰ってしまいますし、 あるときは救難信号を送っても難民船だとわかると無視されてしまうこともありました 。難民は厄介だと思われていたんです。

 二〇日ほど海上を漂流した末に、パナマ船籍のタンカーに拾われました。船員は全員、 フィリピン人で、ちょうど日本に砂糖を輸送する途中だということでした。私たちはた またまパナマの船でしたが、オランダの船に救出された難民もいました。そのときどこ に向かうどこの船に拾われるかはまさに運です。そして、それによってその後の人生が 決まって来ます。最初に思い描いた通りに脱出できる人はまずいないんです。 漂流している間で、両親が死んでしまった子が私のボートにいたんです。仕方がないの で死体は海に流して…。でも、その子どもは頑張って、日本で大学院までおえて、今で も元気に頑張っています。 命がけなんですが、それが決して報われるとは限らないんです。

 私たちは、フィリピンの難民センターに送られる予定だったんですが、ここがたまたま いっぱいだということで、このときの船長の判断で、砂糖とともに日本に向かうことに なったんです。これも運です。 最初に着いたのが神戸でした。しかし、神戸では上陸が許可されませんでした。そこで 、近くの岡山の港に向かいました。忘れもしません。宇野港という港でした。一九八二 年七月七日でした。 私は家内と、一歳半になる娘とともに無事に到着したんです。奇跡だと思いました。 日本にきた最初のころ、八六年くらいまではまだ、理解がありました。ベトナム難民な んですか、わかりました、やってあげましょうと、日本全国、どこの役所でもむしろ理 解がありました。それはきっと、当時はまだ新聞やニュースでベトナム戦争の記憶が新 しくて、そしてボートに乗った難民のことも知られていたからなんですね。

 でも、それ 以降はニュースにもほとんど出なくなりました。われわれ難民が日本にいることもだん だんと忘れられていって、役所で働く若い日本人たちも知らなくなってしまったんです 。日本は『国際化』とよく言うでしょう。ずいぶんと国際化したのに、皮肉なことだと 思いました。 サイゴン陥落直後に始まった私たちのような難民流出で、日本にはおよそ一万一〇〇〇 人のインドシナ難民が到着しました。そのうち、ベトナム人は八〇〇〇人で、カンボジ アとラオスからの人達が、それぞれ一三〇〇人ずついます。 七九年に、日本政府は難民の定住受け入れを決めて、兵庫県の姫路市と神奈川県の大和 市に定住促進センターを設置しました。

 そこで、日本語の教育や就職のあっ旋など支援 してくれることになったんです。それからまだまだ増えてくる難民に対応するため、八 二年に長崎県の大村市にレセプションセンターをつくって、八三年には東京都品川区の 旧国鉄の線路沿いに国際救援センターを造りました。私が日本に来た時も、この品川の センターで日本語や日本社会について勉強して、そこで、日本での仕事についての適性 などもアドバイスをもらいました。 八二年に長崎にレセプションセンターが出来てから派、日本に到着した難民は、まずそ こで健康診断や基本的な審査を受けて、それから長期的な滞在設備が整った国際救援セ ンターへと移ることになりました。そして品川のセンターを出ると、姫路市や大和市と いった、支援態勢の整った地域へと入っていって徐々に日本社会で暮らすように準備し ました。

 いまでも、大和市のベトナム人の数は五〇〇人を超えますが、なかには私もそうですが 、日本に帰化する人々も増えています。だから、インドシナ難民としての過去を持つ人 数を特定するのは、大和市に限らず、姫路市でも難しくなっています。 私は、同胞のベトナム人を支援する仕事に就きましたが、みな、こんなことを言います 。 生き延びるためにベトナムを出たけれど、そのときにはとにかく無事に脱出してどこか に辿りつくことを願うだけで、日本に行きたいとか、そんな具体的な場所までは頭にな かったって。 むしろ、南の軍人のなかには、やっぱりアメリカに行きたいと希望する人のほうが多か ったです。アメリカ軍との関係で、英語ができる人も多かったから。南政府の関係者ら にとっては、日本よりもアメリカのほうが身近で親密に感じていましたから。

 やっぱり 、一番の希望はアメリカとかカナダだったんですよね。 日本は受け容れてはくれましたが、難民に対応した経験がなかったので、難民が日本で 結婚するのも大変なんです。 日本の役所では婚姻届を受理してくれるまでに半年もかかることがあります。日本の役 所は、ベトナム大使館に行って、独身証明書をもらってきて欲しいというのですが、難 民であるのに、大使館に行けるわけがありません。独身証明書も出せないんです。結局 、法務局に出向いて、男女がそれぞれ別の部屋で取り調べみたいに質問されて、そして 独身であることを誓うという陳述書を書いて、それでやっと役所が受理してくれるんで す。 でも、日本の役所にとっても対応が難しいのはわかるんです。難民は、日本の外国人登 録法では、あくまでもベトナム国籍ですが、ベトナムの領事館などへ行けば、私たち難 民はベトナム人ではありませんから…。無国籍の状態になってしまうんです。

 だから、私たち、渡ってきた難民一世の子供たち、二世はまだ、日本で生きていくのに 不安があります。わたしたちは無国籍だから。日本ではインドシナ難民を保護する法律 がないので、無国籍である難民の子供も無国籍になってしまうんです。ベトナムでは戸 籍そのものが消されてしまっているし、公的な証明書を出せと言われるときは、とても 大変です。 自分の国や政府を信じられなくて逃げてきたんです。誰に守られていけばいいのか…。 誰が私や家族を守ってくれるのか。もう、ベトナムは国全体が大きな刑務所なんですよ 。どこに行ってもダメだった。だから、国から逃げるしかなかった。なのに、着いた日 本でもまた無国籍になってしまいました。これはとても辛いことです。

 ベトナム政府は、ある時期、ファー・ホン・ローというのを始めました。日本語では、 赤いバラと訳します。赤いバラ作戦というのが、ベトナム共産党の秘密作戦としてあり ました。わたくしが知っているのは、七九年にそれが始まったということです。それは おそらく八〇年代の半ばくらいまで続いたでしょうか。 七〇年代後半から、多くのベトナム難民が流出して、ベトナム共産党は非常に頭を悩ま したわけです。難民がそれぞれの国に行って内情を明かすので、国際社会でのベトナム の評判も悪くなります。

 その頃、ベトナム北部の刑務所は、収監された犯罪者でいっぱ いで、どこの刑務所も満員の状態でした。そこで、彼ら犯罪者を、ベトナム難民を装っ て脱出させ、そのなかには共産党の工作員も紛れこませたわけです。 共産党の秘密作戦でした。犯罪者を難民として流出させることで、ベトナム難民の、国 際社会での評判を落とさせようという作戦でした。中に紛れている工作員は、私たちベ トナム人のコミュニティに入ってきて、いろいろな噂を流したり、日本での私たちの動 向を監視して報告したりと、さまざまな工作をするのです。これは今でも続いています 。

 ですから、日本社会で暮らすベトナム人同士でも、互いに、簡単には心を開きません 。 今でも同じです。ベトナムは今も社会主義だということを忘れてはいけないんです。向 こうの家族にお金を送るときも、タバコの箱の底に二重にして、写真を入れたり誤魔化 して、そうして一回目は届きます。でも、二回目は届きません。手紙もぜんぶ開けられ て、検閲されているんです。自由の基本が守られない国をどのように信頼できるのです か。 こういう事情があるので、同じベトナム人でも、相手が本当の難民なのかどうか、なか なかすぐには信用できません。なかには、まだベトナムに家族を残している人もいるか らです。もし、ベトナムでその家族が大変なことになったらまずいです。

 日本での〝北 と南の戦い〟はまだ続いているんです。南の人間は北の人間を警戒しますから。結婚や 交流もほとんどありません。北の監視には、日本でも脅えているのです。だから、必ず 匿名にしてください。写真も絶対にやめてください。 ドイモイ(開放)政策のもとで、明るいリゾート地としてのイメージが定着した昨今の ベトナムしか日本人は知りません。ベトナムは今、ものすごい景気がいいです。日本の バブルみたいです。ハノイはとりわけすごいです。地元の役人までがロールスロイスや ポルシェの新車を乗り回して、ヨーロッパのスポーツカーが溢れています。その一方で 、庶民の暮らしは相変わらずで、農村部だけでなく、都市部でも日本の戦後と変わらな いような暮らしが大半です。もちろん、政府の役人の給料でそんな贅沢な暮らしができ るわけがないんですが、賄賂と収賄が横行して、とてつもない。ドイモイ政策で、欧米 の投資を呼び込むことに成功したことで、こうした袖の下の権益がすさまじく膨らんで いるんです。

 社会格差なんて日本の比じゃないですよ。 そもそも、ベトナムは五四年のジュネーブ協定によって南北に分断されました。その時 、私を含めて、ハノイなど北に住む大量の人間が南に逃げたんです。その数は百万人と も推定されています。なかには、ラオスとの国境を越えて、タイやカンボジアまで逃げ た人もいた。大量のベトナム人が脱出したのはその時が初めてです。そして二度目がサ イゴン陥落の七五年です。我々は人生において二度、難民になったのです。

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