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「褒め」ってなんだろう。アブラムシを食べても食べても…のテントウムシは役をなしてはいるけど、こちらの希望を全叶えはしていないとして。これ褒めるか否か。褒めってかなり難しいものと気づく。
アブラムシをせっせこと食べているテントウムシ🐞をあちらこちらでみます。
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わたしが思わずテントウムシの食事に視線を送ってしまう理由は、家庭菜園という仕事で、常に、アブラムシ問題に頭を抱えているからです。
だからみてしまうのがまず前提。
すさまじい量のアブラムシを全滅させることは、天敵のテントウムシをしても難しいことなのだなぁとあちこちでみていて思います。
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でも、一定数のアブラムシを減らしてはいるのですよね。(堰き止めている感じなのでしょうかね)
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でも全滅させることはない(はず)。
家庭菜園の仕事のわたしは、アブラムシを全滅させて欲しいと現実味のない希望があるはある。ないかあるかといえば、ある。テントウムシにそういう視線を送っています。
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アブラムシは無数に増える。
あちこちで全滅しない限り増えてしまう。
では、一時的に数を減らしてくれてはいるけれども、全滅させてはくれない(全滅させて欲しいというわたしの勝手な希望を含んでいる)テントウムシのこと、テントウムシの働きを褒めるべきかどうか。
わたしがテントウムシのことを好きならば褒めるし、好きではないとかさほど…なら褒めないかもしれない。
その感覚にはいつの間にかわたしの傲りが混ざってきているし、そもそも、わたしの「褒め」にいかほどの価値があると思っているんだ問題も出てくる。(恥)
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そうやって考えて結果、テントウムシはテントウムシで、褒めを意識しているわけではなく、生きるための捕食をしているので、わたしは褒めなくていい気がします。誰かが「テントウムシって(アブラムシを食べて)偉いですね」と呟いたら、「そうですね、(我々の農作物に被害をもたらすアブラムシを若干?)減らしてくれるから役に立ちますね」と返すのはやぶさかではないです。
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これはアブラムシと天敵テントウムシのことに限らず、いろんな場面であることだと思う。なんでもかんでも褒めていいことばかりではなく。「褒め」をまず提供と考えてしまったりすると、わたし側のテンション、感情、私情、日の気圧や自律神経的なものに揺さぶられたりするような気がする。そういう褒めはなんかせこいし、みみっちぃ。褒めライン、褒めポイントみたいな線引きをして、わたしのとっておきの”褒め”、”褒め攻め(そんなのあるんか)”を一部のひとにだけ届けていこうと思っているなぁ。褒めたいことは褒めたい。褒めたいは私情。でもニーズじゃない、ひとりごとに限っていきます。
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