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眼鏡とポリティカル・コレクトネス ~何故母親は我が子に眼鏡を買ってあげなかったのか~

1・Twitterと眼鏡と私


 ある日、日課と化しているTwitterをやっている時に、こういうツイートがTL上に流れてきたのだが、

 これを見た時に思うことがあったので、いくつか取り留めのないことをツイートしたのだが収拾がつかなくなってきた為、一先ず整理するためにとりあえずnoteでまとめることにする。


2・そもそもなぜ眼鏡の話に食いついたのか

 それは私が目が悪いからである。というわけで当然私も眼鏡を持っている。

 何故「眼鏡を持っている」というと、特に日常生活で眼鏡がないと困ることがないのでかけていないからだ。

 眼鏡は顔の一部である。私はそう思っているので、普段はかけてないものであっても眼鏡をぞんざいに扱われるというのは、他人事として看過できないのだ。


 先のツイートを受けて私はこういうツイートをしたのだが、なぜこのようなツイートをしたのかというと、眼鏡の話と聞くと私の中では真っ先にこれが思い浮かぶからである。

 この後に、「この母親は目がいい人だから、目が悪い人の気持ちが理解できない。あとこの話を聞いた時に、私は虐待だと思った。」というようなリプライをつけたのだが、ここではあえてその話は置いておくことにし、「勉強が出来ないのに目が悪い訳がないでしょう」に注目したい。


3・眼鏡とフィクション


 私は先にも述べたように眼鏡を持ってはいるけれど、だからといって勉強ができる訳ではなく(特に数学)、なので「勉強が出来ないのに目が悪い訳がないでしょう」発言に同意できないし、それどころか良識を疑ったくらいなので理解できないを通り越して理解したくないレベルなのであるが、あえてこの母親の立場に立ってみないと見えない世界があるのかなと思い、足りない頭で考えた結果、「この方の中では眼鏡をかけている人は頭が良い人のイメージが着いてしまった」のではないかという推察をするに至った。
 まず眼鏡=頭が良い人のイメージを付けた作品というと、「大草原の小さな家」のメアリーを思い浮かべたのであるが※、恥ずかしながら当作品は未視聴であるため間違っていたら申し訳ないのだが、あらすじを見る限りでは「女は賢くなくていい」という風潮に対しての反発であるため、内容自体には問題はなかろう。

 ここで私が問題だと感じたのは「眼鏡が必要なくらい目が悪い人は頭が良い」というイメージがついてしまったことである。

 眼鏡というのはReading Glasses(老眼鏡のこと)と呼ばれているものもあるように、字を読むことと密接に関わっている。

 その事から眼鏡は知性と結びついてもおかしくはなかろう。

 現に眼鏡をかけているキャラというのは、その殆どが、頭が良い、勉強ができる、といった知識や思考力に長けたキャラが多い。

  その事から「勉強が出来ないのに目が悪い訳がないでしょう」発言は、創作上に蔓延している「眼鏡が必要なくらい目が悪い人は頭が良い」というイメージを真に受けたのではないか推察したわけである。


4・勉強が出来ないことを問題だと思っていなかった問題


 私の話になって申し訳ないのだが、私が眼鏡を作ったのは小学校か中学校の頃だったと思うのだが、それは黒板の字が見えづらくなってきたので勉強に差し障りが出るだろうということからであった。

 その子も当然そのようなことを訴えていたのであったが、母親は何故かそれを聞かなかった。

「勉強が出来ないのに目が悪い訳がないでしょう」

である。


 この発言は先程言及した「頭の良い人でないと眼鏡をかけるほど目が悪くならない」の他に、母親自身が勉強が出来なかったが故にそれを軽んじているから出てきた言葉ではないだろうか。

 このことに関しては、ツイートにリプライを送ってくださった方が言語化してくださったのでここに引用したい。

 私の母だって、私のことを賢いとか頭が良いとか思ってないことに変わりはなかろうが、それでも作ってくれたのだ。それに母もあまり勉強を重んじているタイプではないし、私もあまり勉強が好きではない。
 といえど、この違いはどこから出てきたんだという他ないので、他人事ながら頭を抱えざるを得ないのである。

5・創作における眼鏡のあり方を考える

 最近よく「ポリティカル・コレクトネス(以下ポリコレ)」という言葉が聞かれるようになり、そのことにおいて議論が度々起こっている。

 ポリコレというのをざっくり説明すると、「偏見や差別的な表現をなくそう」ということだが、「勉強が出来ないのに目が悪い訳がないでしょう」というのは、まさしく「眼鏡に対する偏見」そのものではないだろうか。

 「いや、眼鏡に知的で頭がいいイメージがあるなら別によくね?根暗だの陰キャだの呼ばれるより」と思われる方がいるだろうが、今回はそのいいイメージのせいで、学業に支障が出てたにも関わらず高校生になるまで眼鏡が作られなかった、という悲劇が発生しているのだ。

 もちろん悪いイメージがつくことはあってはならないのだが、よかろうが悪かろうが偏見は偏見であることに変わりはないだろう。(そもそも根暗や陰キャを悪いとするのはどうなんだとは思うが、それはまた別の話。)

 眼鏡には伊達眼鏡というものもあるように装飾としてつけている人もいるし、それを否定するつもりはない。

 しかし、大多数の人は眼鏡を視力矯正器具として使っている以上、良いにせよ悪いにせよ特定のパーソナリティと結びつけるというのは尚のことしてはならないだろう。


 もっともこの話はレアケースなのかもしれない。ただ創作者というのは、己の創作物が世間にどのような影響を与えるのかということを、今後は考えていかなければならないのではないだろうか。

 私は別に「眼鏡と知性を結びつけるのはよろしくないから規制しろ」と言いたい訳ではない。しつこいようだが、創作者は己の影響力を考えろと言いたい。

  だいいち、いい影響を与えた時には「○○のおかげだ!」といって持て囃すのに(俗に言う「聖地巡礼」もその類であろう)、悪い影響を与えた場合に「○○は関係ない!」というのは虫が良すぎるというものである。

  それにそんな無責任なことをしているからいつまでたってもオタクの心象がよくならないんだろと、嫌味のひとつでも言いたくなってしまうのだ。


※筆者はこの作品を「眼鏡と頭の良さを結びつけた最初の作品」として挙げましたが、「これの前にもあるよ!」という方はコメント欄等で教えていただけたら幸いです。

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