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心が先か、行動が先か。

気持ちが先か、行動が先か。

あなたはどちらの方が大事だろうか。

ゴミを拾うのが先か、ゴミを頑張って拾おうと思える気持ち作りが先か。

逆上がりの練習が先か、逆上がりを練習しようと思える気持ち作りが先か。

最近の教育観では、この「気持ち」を重視している気がする。主体的に学習に取り組む態度というやつだ。
もちろん、それは大切なこと。

が、果たしてこれは「気持ちが先」ということなのだろうか。

ゴミを拾うという行動を強化する中で、ゴミを拾おうという気持ちを醸成できることだってあるはずだ。

逆上がりの練習をする中でできる未来が見えて、練習したいという気持ちが醸成されることだってあるはずだ。

鶏が先か卵が先かみたいな話しだが、これはどっちかに傾きすぎるとややこしいことになる。

気持ちを作ることを優先し過ぎれば、「そんな気持ちになれないから困ってる」という不満が生まれる。
行動を強化することを優先し過ぎれば、「なんのためにやるのか」という目的を失いかねない。

私はどっちにも偏りすぎた経験がある。
気持ちにも行動にも。

偏りすぎると不協和音を生む。

そんな気持ちになれない。
気持ちが理解できない。
行動の形骸化。
雑さ。

気持ちによりすぎても、行動によりすぎてもこぼれ落ちる子どもが生まれてしまう。
特に低位層の子どもたち。

子どもたちに任せる。
教師の口出しはしない。
叱責しない。
注意しない。

これらは一見、素敵な実践に見えて、そうではない。世に煌めく自由進度学習も探究的活動も、話し合いも、初めから野放しなわけがないのだ。

例えば、討論の授業で教師の介入を一切しないためには、子どもたちが討論の作法を知っている必要がある。そこに至るには、一歩一歩丁寧に子どもたちが技を使いこなせるように指導する必要がある。

難波駿先生の著書「自由進度学習の超具体」には事細かに「少しずつ手放す」ということが書かれている。いきなり自由で教材を渡して、「はい自由にどうぞ」で自由進度学習が成り立つわけがないのだ。

自由とは野放しではない。
正しいやり方を身につけ、それを選択し、組み合わせられる自力の中での「選択の自由」を、自由と呼ぶのだ。

その結果として、

子どもたちに任せる。
教師の口出しはしない。
叱責しない。
注意しない。

ということは生まれてこよう。

我々は教師だ。
教える師なのだ。
彼らに気持ちと同時に、彼らが選び取れる選択肢をまずは教えねばならない。
それがどう扱えるようになっていくかは、まさに教師の力量といえる。

頑張れ、気合だ、心の持ちようが全てだ、と言うことなど、誰にだっていうことができる。
そんなのをプロとは言わない。

プロは技術を持って、論理的に多角的に確実性の高い方法で気持ちとは別のアプローチから解決するのだ。
医者が「気合いで治せ」なんて言ったら2度とその病院には通わないだろう。
10秒の診察で適切な薬を処方できるからプロであり、医者はそれに見合った報酬を受け取っている。
もちろんその上で、患者の心を大切にすることはあろうが。

話を戻す。
気持ちにしかアプローチできない。
行動にしかアプローチできない。
それでうまくいくはずがない。

プロは行動にアプローチをかけ、その上で気持ちのアプローチをかけるのだ。
逆も然りだ。気持ちにアプローチをかけその上で行動にアプローチをかける。
卵が先でも鶏が先でもどちらでもいい。
どちらからもアプローチをかける必要がある。


正直、私は今、かなり「気持ち」一辺倒なアプローチをしていだ。

なぜできたのか、なぜできなかてないか。
行動を「信じて待つ」

このアプローチも大事かもしれない。
しかし、本当に大事なのは、ここに具体的で明確な行動へのアプローチがあるかという点だ。
どんな行動が正しいのか。
その行動を強化できるアプローチは行ったか。

ここで強化したことは「先生に褒められたからできた」なのかもしれない。
しかし、いいじゃないか。上等だ。
褒められればできたのだ。
やる理由。
「先生が褒めてくれるから」。
いいじゃないか。上等だ。
あくまで、行動を取れる中で彼らは気持ちに気づいていく。

やりたいからできるんじゃない。
できるからやりたくなるんだ

まずは子どもたちに成功体験をさせてあげよう。

行動あっての学びだ。

そして、その行動を起こさせる火種として、心の持ち方を伝えよう。
決して片輪では発進しない。

両輪揃っての学びなのだ。

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