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その感覚の一切に名前をつけよ

四半世紀を生きることになる、25歳を前にして。
私は今、自分の感覚に悩まされている。

「“好き”を仕事にする。」
働き方や生き方についてが、昔より多くメディアにフィーチャーされる昨今。
なにかとこの言葉を目に、耳にするようになった。
「自分の“好き”を持っている人はかっこいい。」
世の潮流がそんな動きを見せはじめ、例にもれず、私もそんな“好き”を持った人たちを羨望し、先駆者たちの言葉や思考を追いかけてきた。
しかしその先にあったのは自問自答ばかり、望みのものは見つからなかった。
はてさて、私の“好き”とはなんだろう、と。

ーーー

人は自分の感情にフタをしたとき、「“好き”になれるものがない」という状態に陥りやすいものだ。
しかし私の自問は、この状態から生まれるものとは少々異なっている。
実際私は人並に好きなものを持っているし、そのいくつかは熱中できるレベルだ、といってもいい。
ただ私になかったのは、なぜ好きなのか、という核だった。

ハマっている食べ物、物心付いた頃から染みついている音楽。
こういった“好き”と呼べるものには、何かしらそうなった理由がある。
ただ私は、そこに明確な理由を持っていない。
持っているのかもしれないが、正確に言語化できないというのが、本音。

誰かの“好き”を深堀すれば、その根元となった何かしらの感覚が見えてくるものだ。
食べ物は美味しい、音楽は美しい……我々はそれぞれの心地よいと感じる感覚を、“好き”という言葉に結びつけることが多い。
そしてさらに多くの人は、その感覚が生まれた先天的、または後天的バックボーンを持っている。
“好き”を持った先駆者たちは皆、その感覚とバックボーンについて、自分の言葉を当てはめて、語ってきた。
その姿を見ているあまり、私は言語化できない“好き”に違和感を覚えた。

理由もない“好き”を信じながら、私は24年間、感覚だけで生き進んでしまったらしい。
感覚で認知する、かの哲学者たちが残して行った有名な感覚論を踏み進めて来たとしても、“好き”をしっかり言語にできない自分は、なんだかとても未完成な存在にみえる。
もやもやと胸に湧いた違和感だったが、ふとこんな問いが頭をよぎった。

完璧な存在などいないだろうが、果たしてこの“好き”という感覚を、どれだけの人が語れるのだろうか。

ーーー

“好き”以外にも、言語化できていない感覚は山ほどある。
ましてや、未だに名もない感覚まであるくらいだ。
しかしその実、私には知的好奇心をくすぐるような、一種の前向きな気持ちも湧いている。
自分の感覚の一切に名前をつける作業、そのために言葉を尽くして考える。
未完成な私にとって、この作業は途方もない旅になるだろう。
しかしきっと、楽しい何かに繋がっている。
何せ、脳を、心を突き動かす名もない感覚がそう言っているのだから。

あなたは、自分の“好き"を語れますか?

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