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価値観の話


恋人に求める条件として、価値観の合う人、を挙げるのをよく聞く。

性別や年齢を問わず、納得感の強い、人気のあるフレーズなんだと思う。



しかし、「価値観が合う」とはどういうことを指しているんだろうか


直感的に、「好きなものが同じ」とか、「趣味が合う」とかそういうことを思い浮かべてしまいがちだけれど、そこは本質じゃないだろうなと思う。



例えば、「食の好みが合う」ほうがいいのか、とか。


同じものを食べておいしいね、っていうのも幸せだし、これ好きだったよねあげる、とか、嫌いなものは食べてあげる、ができるほうが「ちょうどいい」と感じる人もいると思う。


この程度に関しては、両方を使い分けることも可能だ。好きな食べ物がかぶったら一緒に食べに行けばいいし、嫌いな食べ物がかぶったら避ければいいし、違うなら交換するでもいい。

なんなら相手によって、やっぱり私たち気が合うね!と言ったその口で、補い合えるほうが理想だよね、と言うことだって可能だ。


個人的には、食の好みは、方向性が一致した上で食材くらいはバラバラ、がちょうどいいんじゃないかと思っている。

レストランを選ぶときに困らず、シェアしたいものを2つ頼んで分け合い、相手の好みのものを見つけたら、好きだと思って、と買ってあげるくらいの。



つまり直接的な好みが合うかどうかはどっちだっていいのだ。

問題は、その点についてどうあるべきだと思って(しまって)いるか、だ。


時代錯誤と言われようとも、相手の好みに合わせた食事を作って美味しいと言ってもらいたい人と、自分の好みに合わせた食事を作ってもらえることが最大級の愛情だと思っている人の組み合わせであれば、本人たちは幸せだろう。

あるいは、食事は各々が好きなタイミングで好きなものを作ればいいし、買ってきたっていいと思っている人同士も難なくやっていけるだろう。

ただ、食事を共有することが親密さの証であり、食事を作ることが愛情だと思っている人と、あくまで栄養補給の延長線上であり、時間や好みが合わないのであれば別々のほうが合理的だと思っている人が、ぶつからずに済むのは難しいだろう。


ここが価値観なのだ。

「美味しいものを共有したいっていうのは当たり前でしょう?」「好みを無理に合わせることはないでしょう?」「作ってあげたい気持ちがわからないの?」「一緒にするのは食事以外ではダメなの?」「やっぱり手料理がいい」「買ったほうが確実」…


どっちがいいとか悪いとかではなく、「食事をどのように思っているか」「食事と相手と自分の関わりについて、どのような理想または常識を持っているか」が根本的に異なっていると、すり合わせが必要になる。




趣味が合う、についても同じである。

似たような趣味を持っていたほうが気が合うんだろうなという印象はあるけれども、あまりに真剣なタイプだとライバルになってしまうこともあるらしい。入れ込み方の違いや、解釈違いがどうしても許せないパターンもある。


お互いの趣味をわかってほしいのか。共有して一緒に楽しみたいのか。それぞれが楽しんでいればいいのか。共感はできなくても理解はしてほしいのか。干渉しないでほしいのか。むしろわからないのに入ってこないでほしいのか。

片方が無趣味な場合も、理解しがたい世界になってしまうか、うらやましいと思うか、引き込まれていくのか、自分がみじめになるのか。


趣味の位置づけはどれくらいなのか。寝食を忘れて没頭するのは当然なのか、相手をないがしろにしているように感じるのか。趣味を理解するとはどういう意味なのか。度が過ぎる、とはどの程度を指すのか。手間は、時間は、金額はどれくらい割くものなのか。相手への埋め合わせが必要だと思うのかどうか。あくまで生活の一部なのか。娯楽は嗜好品なのか。生きる糧なのか。暇つぶしなのか。わりと好き、なのか、命の次に大事なのか。息をするように、なのか、魂を込めて、なのか。



「当たり前」だと思っていたことが違うからこそ、最初に話し合っていたとしても不備が出る

「理解するって言ったじゃん」「こんなにとは思わなかった」
「協力するって言ったじゃん」「できることはしている」
「干渉しないでほしい」「放置しないでほしい」「話くらいは聞いてほしい」
「大事にしてほしいって言ったのに」「触るのもダメだとは知らなかった」
「放っておいてほしいって言ったのに」「ご飯も食べないとは思わなかった」



そしてすべての価値観において、「すり合わせ」が必要だと思えるかどうか、暮らしていくうえで重要なことだと認識できるかどうか、が最上位の価値観にあたる


思いっきりケンカして言い分をすべてぶつけ合うのがいいのか、感情を入れずに穏やかに話し合いたいのか、なるべく察して譲歩し合うのがいいのか、そもそも最初からそれが必要ない人がいいのか、だったら別れるとあっさりしているのか、二人で考えていこうよと言うのか、お前が合わせろと思うのか、自分が正しいのにと思うのか。


正論ばっかり言う、筋が通っていないことを言う。

人の気持ちがわからない、建設的な議論に協力しない。


そう思うのは、話し合い方、あるいは話し合うべきかどうかについての価値観に差異があるからだ。



合意が取れ、解決するのであれば、ケンカで解決するのも悪くはない。というか、いい悪いではない。感情的にならないのが大人のやり方、という風潮もあるけれども、必ずしもそうではないのではないかなと思う。


試し行為(引き留めてもらいたくて別れる!とか言うこと)だって、やめたほうがいいそんなことしない人を選ぶべき、みたいになっているけど、

別れるなんて嫌だ!と言ってほしい、それで愛情を感じられるタイプの人間と、そんなこと言うなんて本当に好きなんだなかわいいな、と思えるタイプの人間の組み合わせだったらお好きにしたらいいんじゃないだろうか。


たいていの場合、振り回される第三者が迷惑するか、言われる側が嫌気がさすか、言う側がエスカレートしたり精神的な不安定さを助長したりする、結果破局してやっぱりだめなんだという悪循環に陥るからよくない、という話ではある。が、本人たちが成り立っているなら割れ鍋に綴じ蓋というやつだ。




個人的には、「親しき中にも礼儀あり」が無意識レベルで身についているとか、冗談でも言っていいことと悪いことの線引きが近いとか、食べ物を粗末にしない生き物を大事にするとか、相手の大事なものを尊重するとか、どんなことがあっても暴力も暴言も使わないとか、浮気をする人間が理解できないとか、そういった常識だと思っていたことやタブー意識が限りなく近いこと、が重要だと思っている。

が、それ以上に、そもそも人間は完全に分かり合うことは不可能で、価値観が完璧に一致することもあり得ず、そのことを理解したうえですり合わせる努力が必要だと認識する、という大前提が共有されていてほしい。



こんなことを面と向かって大真面目に話し合えるかというと、難しいんだけど。

そこにまた種類が出てきてしまう。契約書を交わすレベルで律儀に話し合うのが合理的と思うか、そこまでしなくてもだいたいわかるのがいいのか、ケンカしてからでいいのか、とかね。


そして偉そうに言っている自分だって、それが理想だとわかっているだけで、実践できるかというと別の問題になってくるわけで。

難しい。




本日はこの辺で。

ご覧いただきありがとうございました。


5月29日、1時間半、3000字

ご覧いただきありがとうございます。 いただいたサポートの使い道はまだ決めておりませんが、大事に使わせていただきます。おやつになるかもしれないしPhotoshopになるかもしれません…