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生きている限り、私は何度も平穏を手放すのかもしれない


わたしの心はちゃんと満たされていたのに、完璧な丸い形をしていたのに、思いがけないタイミングで、彼はわたしの心に落ちてきて、音を立ててぶつかって、心の一部をごっそり持って行ってしまった。

持っていかれた心の一部は帰ってこなくて、丸かった心には、すっかり穴が開いて塞がらなくなった。

家族も恋人も友人もいて、仕事も順調で、趣味も楽しんでいた、そんな穏やかな普通の日々が、いきなり音を立てて崩れ落ちる、そのことの意味が、今、はじめて現実のものとしてじわじわと迫ってくる。

人生は思うようにはいかない、とはわかっていたけれど、こんなにも絶妙なタイミングで、平穏な人生が一気に180度回転してしまうとは、思いもしなかった。

もしかするとわたしは、神様に試されていたのかもしれない。

この不慮の事故とも言える、彼との衝撃的な出会いを経てもなお、穏やかな日々を選び、何事もなかったかのように、昨日の続きを再開できるかどうかを。




彼が日常に突然降ってきたとき、わたしは咄嗟に、あ、日常が壊れる、そう思った。

思ったけれど、物事はまるではじめから全て決まっていたかのようにするすると流れ、気づいたら、決められた答えだけがここにあった。

昨日までの平穏な日々より、なにが待っているのかわからない、この先どこに行くのかわからない新しい日々を、わたしは無意識に選んでしまった。

突然やってきた隕石のような彼によって開けられた穴を、見て見ぬふりすることは、今のわたしにはできなかった。

穴が開いたまま、平穏で幸せな日々を、何食わぬ顔で過ごすことは、できなかったのだ。

わたしは彼との日々が、彼によって持ち去られてしまったわたしの心の一部が、これからどこへ行って、どんなふうになるのかを、知りたい、そう強く思った。

それがわたしの答えだった。




曇りのない、一筋の好奇心。
最初はきっと、ただそれだけだった。

それが世間から見て正しいとか正しくないとかそういった考えは、少しも心を過らなかった。

ただ純粋に、眼鏡の向こうの、無表情な瞳の奥の心を見てみたい、そう思った。

気づかれないようにそっと視線を向けると必ず捕らえられる、わたしの両眼に映る彼の曖昧な微笑みが、その心をさらに掻き立てた。

純粋な好奇心。もしかするとそれが、一番たちが悪いものであるということを知るのは、もっとずっと後のこと。




「会いたい」という感情が心にぽっかりと浮かぶたび、自分の心のなかの何かがひとつずつ吸い取られてゆくような、そんな感じがした。

でも、吸い取られていく感覚すらも、酔いしれてしまいそうなほど美しくて、尊くて、今までに経験したことのない、独特の味だったから戸惑った。

甘くて密度が高くて、飲みやすいのに突然意識の糸をぷつんと切ってしまう、度数の高いアルコールみたいな味。

そしてそれは、いつもなら3日も経てばすうっと消えてしまうあっけない感覚なのに、一週間経っても変わらない濃度で体内を漂い続けるから、参ってしまう。

実際に、お酒が信じられないくらい強い彼と一緒にいると、この感覚はあながち間違いではないというか、現実的な感覚であるように思えた。

彼といるときは、いつもよりアルコールの回りが早く、それでいて、いつになっても抜けずにぐずぐずと身体に居座っている。ここ最近は、それがしばらく続いているような日々だった。



こんなにも、時間が早く過ぎればいいのに、と思ったのはいつ振りだろう。

あと3回週末を超えないと会えないことを、半ば絶望のように、それでも人生における僅かな希望のように感じ、大切に育てる苦しい毎日を、最後に過ごしたのはいつだろう。

恋は脳の錯覚である、そんなことはわかっていても、自分にはどうしようもない。抗う気すらない。

愛を手にしていてもなお、恋を欲してしまう自分が怖くもあるし、心強くもある。

自分はこの先、どこまでゆくのだろう。

まさか愛を手放してまで、恋を選んでしまう日もくるのだろうか。

想像すると、少しだけ不安になる。
だけど、それでもわたしは生きてゆくのだろうな、と思う。

生きている限り、この心は何度も誰かに持ち去られ、別の誰かで埋められて、もしくはそのまま空洞で、平穏な日々とそうじゃない日々を、行ったり来たりする。

わたしの心はきっと、ずっと前からそのことを知っていたのだろうなと、曖昧な意識の中で、やけにはっきりと思うのだった。

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