足りないものは、感性じゃなくてたぶん愛
「自分が撮りたいと思うものを探すんだよ、じゃない
と見つからないから」
「自分の感性で、いいなと思うものを撮ればいいんだ
よ」
どうしたらいい写真が撮れるのか、というわたしの
問いかけに対して、彼はそう言った。
感性。
わたしが一番大切にしているもののはずなのに、他の人
からこの言葉を聞くと、なんとなく違和感を覚えて
しまうのはなぜだろう。
自分の感性を、表現する。
表現するのは好きだ。文章を書くことだって、自分の
感情や考えを言葉にして誰かに伝えたい、と思って
続けているわけだし、それが誰かに伝わったり誰かの
心を少しでも動かせたら、嬉しい。
だけど、感性は、誰かに見せるために表現しないと
いけないもの、なのだろうか。
感性を表現した先には、誰かの存在がなくてはならない
のだろうか。
ひとり旅をしているとき、わたしはずっと手にカメラを
持っていて、無我夢中でシャッターを切っていること
が多い。
誰かに見せることなんて一切考えずに、ただひたすら、
自分の心に任せて瞬間を切り取るのが心地よい。
もちろん、隣に人がいないから、その人を振り回す心配
がないし、気を遣わなくていいというのもあるとは
思う。
だけどそれ以前に、自分の心が何によって動いたのか、
誰にも悟られないから、安心してシャッターを切る
ことができる、という点が大きいような気がする。
自分の価値観や美しさの基準に対して、自信がないわけ
ではない。
そもそも感性に自信なんてものが必要ないことは、
わかっている。
だけど自分の心が動いた瞬間を間近でとらえられる
ことに対して、心が強い反発を覚えてしまうのだ。
特に彼と一緒にいるときは、その感情がより浮き彫り
になる。
彼に自分の感性を知られたくない、というよりは、
知られることで、自分がどう思われるのかを想像して
躊躇してしまう。
わたしの感性が、その程度のものなのかと思われるの
ではないか、と思うと、怖いのだ。
彼の足元にも及ばないような気がして、自分の感性を彼に知られるのが、怖い。
感性にその程度も何もないし、上下をつけるなんて
ナンセンスだと自分が一番わかっているはずなのに、
彼の目の前では、どうしても引け目を感じてしまう
自分がいる。
本当はもっと、わたしが世界をどんな風に見ていて、
何を美しいと感じるのか、知ってほしいのに。
そして、それに対して彼がどう感じたのか、話を聞いて
みたいのに。
それができたらどんなにいいだろう、と、夢みている
のに不安が先立つ。
だけど、と思う。
彼はもしかすると、わたしの感性や価値観を、すべて
理解したうえであの言葉を口にしたのかもしれない。
その感性を信じて、あとはシャッターを切るだけだよ、
と。背中を押す意味で、その言葉を投げかけたのかも
しれなかった。
本当は、もう何も迷う必要なんてないのだ、きっと。
そのことは、心の底の方では、自分でもわかっている。
この不安をすぐに拭うことは、たぶんまだ、難しい。
だけど、少しずつ、その呪縛から自由になることが
できたら。
彼の前でも思うままに生きられる自分は、きっととても
輝いていて、幸せに満ちているだろうなと思う。
少しずつでいい。
そんな日に近づけるように、自分の心を、ありのままの
心を、愛していきたい。
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