体は正直

「まんじゅうはお好きかな」
という問いに
「まんじゅう、こわいです」と答えた。
私の親ほどの年齢である男性は、
「お土産」と言っておまんじゅうの入った袋を手渡した。
見ると、母が昔住んでいたという地方のおまんじゅうだった。
母に食べさせたいと思い、週半ばだが本宅に赴くことに決めた。

冬の晴れた日の本宅の居間は、体がとろけそうにあたたまる。遠くの山並みが、西日に照らされくっきりとそびえ立ち、その麓を鳥が寝ぐらへ帰るために飛んで行く。きっと今夜は星が綺麗に見えるのだろう。

私の持ち寄った韓国土産のトウモロコシ茶を魔法瓶から注ぐと、柔らかい湯気が光に照らされてちりちりと踊った。
おまんじゅうを頬張った母は、「この餡、さらし餡だわ」と喜んだ。
私もおまんじゅうを口に運ぶ。

しっとりと冷たい皮が唇の下で破れると、中から更に冷たい、けれどもさらさらと柔らかい餡が歯に触れた。
舌でそれを撫でると、途端にそれは体温と同じ温度になり緩やかにほどけ、体の奥まで続く暗闇のどこまでも広がっていく。
脇の下がきゅうっとすぼまり、息を吸うとお腹の中から繊細なレースのクロスが広げられたかのように身体全体がキラキラしたものに包まれるのがわかった。
「なんて美味しいの。それにとても上品」
東北の奥地にあるその地域でも、まさにこの瞬間にこのまんじゅうを頬張って暖を取る人がいるかもしれない。この間まで滞在していた韓国の地方都市のそこここでトウモロコシの香りの湯気が立ち上っているかもしれない。
お土産って、世界を取り込みながら、世界を広げることができるのね。自分の細胞が、新しい世界と繋がったようで、なんだか嬉しかった。

まんじゅうは袋にたくさん入っていた。母は、冷凍すれば長く楽しめるわ、と言って残ったまんじゅうを仕舞いに台所へ消えた。
私も魔法瓶にお湯を継ぎ足すために立ち上がる。ワックスで清められたばかりの床が、私のスリッパの下で軋んだ。私は「あ」と声を上げるとそのまま滑って転んだ。

「あなた、あのひとに何かプレゼントされてたでしょう。気をつけた方がいいよ。あのひと、若い女の子を見ると決まって声かけるから」
翌日楽屋でそう私に囁いてきたのは、同年代の女性だった。
「この間も○○さんが言い寄られて大変だったんだって」
平坦な声に乗せられて、噂話はカラフルなスナック菓子と共に差し出される。さくさくとした菓子は、歯と歯茎の間に潜り込み、中々体内へ落ちていかなかった。
「そうなんですね」私は曖昧に微笑み廊下へ出た。首を回し、伸びをした視界に、その男性が遠くからやってくるのが映った。
私はどんな表情を浮かべればいいかわからなくて、彼とすれ違わないように進路を変えて洗面所に向かおうとしたが、先日転んだ時に足を捻っていて、上手く歩けずに、彼に追いつかれてしまう。

「怪我ですか」
「はい。転んで、魔法瓶を指の上に落っことしました。病院へ行ってきます」「お大事に」
「おまんじゅう、美味しかったです。とっても」
私がそう添えると、去り際に彼は手を上げてそれに応えた。

仕事を終え、火宅へ帰る地下鉄の中で「病院には行ったかな」というメッセージが携帯の液晶に表示された。返信はしなかった。
明日は休日だ。次にその人と会うのは明後日だから、それまでに返事をすればいい。
そこまで考え、今の自分はなんだか卑屈で好きじゃない、と思った。
「若い女の子に声をかける男性だから」そう忠告してきた女性の表情が思い浮かぶ。地下鉄の薄汚れた窓に映る私の表情は心許なくて、だからその女性の表情を真似して少し口許を歪めさせてみると、周りの色彩とうまく調和した。

私はけれども返信をしなかった。
その人と廊下ですれ違った時、彼は何も私に声をかけず目線もよこさなかった。その時私は何故か荒れ野に放り出されたかのような心地になったけれど、そんな感情は幻想だと片付けた。
楽屋で貰うスナック菓子の袋が、かさかさと音を立てる。

足も快方に向かっていたので、翌週には本宅に置いたままだったスーツケースを取りに行くことにした。
今夜は雪が降るとテレビのアナウンサーが繰り返す。
外を見ると、空一面を覆う雲は灰色で、明るく光っていた。雪雲だ。慌てて洗濯物を取り込もうと外へ出る。
西の端は雲がかかっていなくて、そこだけぽっかりと青くて、ああもう暦の上では春が近づいているのだと心が揺れる。庭の梅の木の片方には白い蕾が、もう片方には桃色の蕾がいつのまにか出現していて、彼らは何を指標にそれほどまでに堂々と自分を晒け出せるのだろうと思いながら、室内に戻り、洗濯物を畳む。

己を信じられるものは強い。

私は自分を信じていると言い聞かせているだけだなぁ、似非自分教だなぁと思いながら、冷えた指先で冷凍庫から何か虫養いになりそうなものを見繕う。
母がこの間買ってきたかりんとう饅頭の残りを見つけたので、レンジで少しだけ温めて皿に移し、居間に持ってきた。

食んだ瞬間に、それがあのひとに貰ったおまんじゅうだとすぐにわかった。脳みそでなく、身体の記憶で。唇は柔らかく皮を喰いちぎり、脇はきゅうんと窄み、食道は滑らかに落ちていく餡の残滓を留めながらもすぐに何もなかったように落ち着く。

理屈でなくて、細胞が覚えている。
あの日味わった愉快な感覚を。
その感覚は誰とも共有できない、でもだからこそ私が拠り所に出来るもの。
私はスマホを手に取ると、丁寧に男性にお返事を打った。
返事はない。でもまたすぐに会うし、会えば話せばいいや。その人のくれるものから嫌な匂いがしてきたら、その時はその時だ。

すぐに変容するのは心の方で、体はいつまでもその美味しい感覚を覚えているのだ。
きっと、庭の梅の木もただ蕾を付けるのではなく、根っこを通じて感じる蚯蚓の囁きや、水の中に含まれた甘い春の香りを受けて、喜びで体を膨らませるのであろう。
それはきっと、本能と、先祖から受け継がれたものと、愛された記憶によって象られた、それぞれのもつ宝物なのだ。

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