思い出は砂の香り
砂漠に吹く風は、日没と共に柔らかく変化する。
夕暮れに青白く浮かび上がるモスクは、あたかもその身に太陽の熱を溜めていないかのように白く輝いていた。かといって、冷たい印象を受けないのは、優美な曲線と照明の加減なのだろう。
蜃気楼の残滓から生まれいずる確固たる楼閣は、砂を孕みちりちりとした風を伴って、触れたら和三盆のように崩れてしまいそうに繊細だった。
唐草模様の刻まれた天井を見上げながら花模様に埋め込まれた石の上に足を滑らすと、瞬く間に蹠の熱を石が吸い取る。なめらかな石肌が火照った蹠に心地よい。衣摺れのさらさらとした音と、遠くから聞こえてくる祈りの言葉が混ざりあい、矩形にくり抜かれた中庭に立ち昇り消えていく。人々のまとう複雑な麝香の香りが、砂漠の中に溶けてゆく。
夜行貝の埋め込まれた石柱の合間を縫って歩いていると、時折昼間の暑さの名残りを含んだ風が、頭を覆うヴェールの端を揺らした。
モスクを一周して、ひんやりとした石の床と絨毯を踏みしめて元気になった足を再び薄汚れたスニーカーに包むと、かつて私が発していた熱が再び私の身体に戻ってきた。
「空港まで、お願い。手持ちのお金が十分でないから、空港のATMでお金を下ろすのをもらえるかしら」
モスクの脇で客待ちをしていた白いトヨタのタクシーに乗り込むと、運転席に座っていた黒人の男性は私をちらと振り返り
「わかった。空港までの道程にATMがあるから寄ろう」
と答えた。車はアラブ風のBGMをかけながら、車通りの多いバイパスに合流した。
アラブのガソリンスタンドはさぞかし黄金色に煌めく泉のような場所かと思っていた。桶で組んでも組んでも尽きることのない深い色の石油が、こんこんと湧いているものだと。そんな訳なかった。日本や欧州のスタンドと変わらない給油口が並んでいる。いくつか種類があったが、読めなかった。値段を確認しようにも、夕方でもう営業を終えていた。
併設されていたコンビニでお金をおろし、車に戻って来ると、車内のBGMが変わっていた。ライオネルリッチーの掠れた声に、運転席にいる彼の歌声が被さる。斜めから見える彼の頬と、バックミラーに映る彼の瞳をさり気なく観察する。
「どこから来たの」
曲が終わると彼は私に話しかけてきた。
「日本。あなたは」
「ナイジェリアだよ。もともとはエンジニアだったんだけど、失業したんだ」
「それは大変だったのね」
「ここで働いて、お金を貯めたらカナダに渡るんだ」
カナダでまたエンジニアの仕事を探すのだという彼に
「家族はいるの」
と問いかけた。
「故郷に両親と7人の兄弟がいる。結婚はしていない。君は」
「私は兄弟はいないの。日本に両親がいるわ」
兄弟がいないということをに彼は大層驚いたようだった。バックミラー越しにこちらをちらと振り返る。
「結婚はしないのかい」
「まだ考えられないわ。お金もないし」
「結婚に大切なことは、お金なんかじゃ無いよ。お互いの理解と協力じゃないかい?早く結婚することはそれを深めることに繋がると思うけどなあ」
彼の言葉は迷いなく紡がれる。自分の中の曖昧な感情を表す語彙が見つからないもどかしさから、私は少し声を荒げた。
「私もそう思うわ。けれど、理屈と現実は違うの。今の日本は若者に厳しいのよ。結婚や子育ての制度が整っていないからお金を貯めなくては」
彼はなるほど、とうなづいた後に、私に諭すように言葉を続けた。
「俺の故郷ナイジェリアの政府なんてもっと酷かったよ。俺は職を失ってここへ来た。最初、車を買うお金すらないところから始めた」
彼の言葉は暗闇を流れるネオンに照らされて私の心に届く。不思議だ。まだミラー越しにしか目も合わせていないというのに。彼の眼差しは、目の前の道路よりも遠いところを見据えている。彼の歩んできた道がアスファルトで舗装された道ばかりでなかったことに、今更ながら思い当たる。背後から見る彼の首筋は、とても強そうだった。その道を歩き続ける覚悟を内に秘めた強靭な肉体を、強く意識した。
会話の合間の沈黙をリッチーの歌声が埋めていく。白いトヨタの車内は冷房が効いていて、外界から隔絶されている。タクシーメーターが上がるたびに、旅の終わりに近づいていることを意識して、とてつもない郷愁に襲われる。その郷愁の行き着く先は、母国の島国でも、今住んでいるEUの国でもなかった。
「もうすぐ空港に着くよ」
長い沈黙の後に彼は標識を指し示した。
「君とまた会いたい。またここに来ることがあったら連絡を入れてくれ。君のために時間を作るよ」
「ありがとう。けれどあなたはその時はカナダに行ってしまっているかもしれない」
「僕は信じている。また会えるって。だって、君と僕は近いもの」
彼は私を振り返り、笑った。私たちはその時、初めてお互いの姿を認めた。
彼の信じるものは、私の眼の前で確固たる輪郭を有し輝いている。
信じる?と彼は訊いた。私は信じる、と答えた。きっと私たちはまた会えるのだろう。砂漠の風が私の頬を撫でる。その中に彼の体温を、吐息を感じる限り、私たちはとても近いところにいるのだから。
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