夜風回遊魚

男性って、涙で目を充血させると途端に子供っぽくなる。
部屋の隅にしゃがんで私の演奏を聴いていた彼が顔を上げた時、その目元が赤く染まっていて、私はその顔をみた瞬間に、どこかで迷子になっていた小さい頃の彼と出会ったような気がした。
男の子は、総じて弱味を見せたがらないから、知らんぷりをしてしまったけれど。私はそれを少しだけ後悔している。

「よく同じ夢を見るんだ。目的地があって、そこへ向かうために電車に乗ると、電車はその駅を通過してどんどん加速していってしまう」
彼は、練習室のピアノの鍵盤を見つめながらそう言った。彼が作った曲にアドバイスが欲しいと頼まれて、彼の大学に遊びに来ていた時だった。
「なにかに急かされているのかな」
私がそう返すと、彼はうーんと唸って考え込んだ。
考え込む男性の首筋を後ろから見るのが好きだ。
鋭利にえぐられた頬骨と、背骨に続く首の曲線と、腕を走る血管の青さを見ていると、自分がまるで彼と一体化したかのような錯覚を覚える。
その肌は、私の持つ湿り気とは別の気配を纏い、その皮膚の下に仕込まれた沢山の機能の気配を漂わせている。
「あなたの演奏も、なんか3拍目から1拍目に行く時に急いている時があって、びっくりするときあるよ。もっと歌えばいいのに」
肩の後ろからそう告げた私を、彼は驚いたように仰ぎ見ると、その言葉を大学ノートに書き込んだ。
記録することが好きなんだ、
彼はそう言ってはにかんだ。

研究をするために都東のキャンパスの研究室へ戻るという彼が、
「渋谷まで出るのなら、井の頭線でも良いけど、歩くことも出来るよ」
と私に告げた。
彼の声は、私の頭上から静かな春の雨のように降り注ぐ。
私は春の雨を浴びながらする散歩が好き。うなづいた私を確認すると、彼は建物の扉を開けた。
建物の外へ出ると、森の中で学生らが各々話し込んだりブレイクダンスに興じていたり騒がしくしていて、彼の言葉は簡単にかき消されてしまう。目を閉じて、彼の声が纏う色を想像する。春の雨のような柔らかな白色。その光の筋が空気を震わせて、私の耳を介して心まで届きますように。
鬱蒼とした森に囲まれて、学び舎は生産の輪廻から逸脱する。日の暮れた空は、遠くのビル群の光によって紺色に照らされていた。

大学の裏門を出ると、そこはすぐに幹線道路に面していて、タクシーやバス、黒く光るセダンの車列が絶えず行き交っていた。まるで今までいた場所から急に現世に放り出されてしまったかのような心地がして、私は彼を見上げた。
彼の目にはもう充血の後は残っていなくて、そこには車のテールランプが映り込んでいて綺麗だった。夏の夜風が、私のワンピースの裾を膨らませる。

「君の音を聴くまで、俺は音を電気信号のように捉えていたのかもしれない」裏道に逸れて、互いの声を聞き取れるようになると彼はそう呟いた。
その言い方がおかしくて、私は笑った。私と彼は、会えない時にモールス信号でやり取りすることができる。お互いの存在を知らなかった幼い日に、それぞれが親から与えられたモールス信号発受信機は、15年の後に漸くその本来の機能を発揮しようとしていた。
「ごめんね。私くちべただから、擬音語多用していてわかりづらいよね」
笑って誤魔化す私に、彼は「だから音楽を奏でるんだろう」と告げた。電子信号では伝えきれない。心まで届けたい。だから会いたくなる。触れたくなる。

夜の散歩は楽しい。昼間太陽の熱を浴びて爆ぜる寸前だったアスファルトも、今は街灯の下で静まり返り、私と彼の目的地の定まらない会話を受け入れる。
瀟洒な邸宅の立ち並ぶ小道は人通りがなく、遠くの交差点で信号が定期的に切り替わるのが見えた。

暫く歩いていると、Bunkamuraの裏手に出た。遠くから雑踏のざわめきが聴こえる。散歩の終わりが近づいている。サンダルに包まれた足は熱を帯びていたけれど、まだずっと歩き続けたいと思った。
私も彼の乗る特急列車に乗ることは出来るのだろうか。
目的地なんて決めなくてもいいのに。
今度夢の話題になったら、そう告げようと思った。

「今日のこと、家に帰ったら日記に書かないと」
ざわめきに紛れて彼の言葉が届く。
「書いてくれるの」
そう答えた私に彼は
「でないと忘れてしまうだろう?」
と続けた。
泣きそうになって「忘れてしまうの」と尋ねると、彼は声が聞き取りづらかったのか、私の方へ顔を近づけた。
私は涙を零さないよう瞬きを堪えながら、彼にもう一度同じことを尋ねた。
私も迷子の女の子なのかな。
そう考えながら見つめていたら、彼は私を見据えて
「いつになってもちゃんと思い出せるように、書いておく」と告げた。
その声には春の雨の気配はもう漂っていなくて、もっと確固たる輪郭を有しはじめていた。鈍い痛みと共に、彼の言葉が私の皮膚の下に潜り込んでいく。
それは私がそうしたのだと思ったら、やはり何故だか泣きたくなった。

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