沙羅双樹の蕾

カルテットの名前がなかなか決まらないまま1ヶ月が経った。演奏会まで残り2ヶ月と少しである。そろそろチラシを刷り始めなければならないというのに、名前が決まらないとはこれ如何に。
その日も、メンバーの家に集まった我々は、楽器を出さずに卓袱台を囲み、中空を睨んでいた。
扇風機だけが規則正しく首を振り、生まれた風は風情もなく風鈴をちりちり鳴らす。
窓の外からは蝉の声が聞こえた。先程まで点けていた蚊取り線香の残り香が漂う空気に、私達の呻きが混ざる。

「うーん、名前を決めることってどうしてこれ程に難しいのかな」
唸りながら卓袱台に突っ伏した私に、第2ヴァイオリンのB子が
「ほんとだよね。別になんだって良いんだけどさあ」
と同意し座っていたソファから滑り降り、その座面に頬杖をついた。壁に寄りかかっていたヴィオラの後輩Cも、「ほんとっすよねー」と相槌を打つ。彼のワイシャツの胸ポケットには潰れたタバコが覗いていた。

「俺に良い考えがある」
そう言っておもむろにソファから立ち上がったのは、今我々がいるこの家の主、第1ヴァイオリンのAだった。彼はそのまま裸足でぺたぺたと床を踏みながら、隣の部屋へ消えていった。
「まさかあいつ、自分の名前冠したカルテットにしようとしてないよね」
残された私たちは声を潜めて顔を見合わせた。
「ぜったい嫌っ」
B子が声を張り上げたのと、Aが紙と鉛筆を手に戻ってきたのが同時だった。身構える私たちに構うことなく、Aは紙と鉛筆を卓袱台に転がした。

「この紙に、まずそれぞれ形容詞を16こ書き出しなさい」
ソファに座ったAは、まるで教師のような口ぶりで私たちにそう指図をした。
「その言い方、◯◯先生みたいっすね」
Cの指摘に、全員が或る先生の顔を思い浮かべ吹き出した。
この4人は学年はそれぞれ異なるが、全員が同じ大学を出ている。あの気難しい教養科目の教授は、今も昔も変わらない口ぶりで学生達を諭しているのだろうか。

「形容詞って、白いとか青いとかだよね?」
「そう。物の状態をあらわす言葉。語尾が『い』のことが多いかな」
B子と私の会話にCは
「16こなんて思いつかないっすよ」
と言いながら卓袱台までにじり寄ると、摘んだ鉛筆を器用に指の間で回した。
私はそうだね、と微笑みながら中空を見つめて言葉を探す。窓の向こうから、夏の西日が差し込んでいた。眩しい。

16この形容詞を書き出すのは、意外にも時間がかかった。
眩しい 淡い 凛々しい 儚い 猛々しい 神々しい
考えながら文字を書くなんていつぶりだろう。そういえば私の文字ってこんなだったっけ。黙って俯く私達は、もう20も半ばのいい大人な筈なのに。
白い空間に浮かぶ文字列を眺めているうちに、私の心は幼い頃に戻っていく。

「じゃあ、16この形容詞を上から2つずつのペアにして。その組み合わせから連想される単語...これは形容詞じゃなくても構わないから...を書き出していこう」
Aの指示にCが
「えー、深くて浅いものってなんですか」と笑い出した。「おっさんの説教じゃないかな」
「私なんて、大きくて太いものだよ」
B子の発言に皆が吹き出した。
「なんだろうねぇ」「えー、私わかんなぁい」
わざとらしい素ぶりと何かを上下に擦る手つきに笑いながら、鉛筆を走らせる。皆がそれぞれ楽しんでいることが、卓袱台を通して伝わる軽快な擦過音から察せられる。

眩しくて淡いもの それは夏の海
凛々しくて儚いもの それは入道雲
猛々しく神々しいもの それは銅像
艶かしく麗しいもの それは浴衣
冷たくて寂しいもの それは水族館
暗くて深いもの それは夜の海
美しくて かしましいもの それは薔薇
瑞々しく初々しいもの それは処女

「出来上がった単語をまたペアにしてどんどん連想した言葉を書いていって」
Aの言葉が遠くから聞こえる。

夏の海に浮かぶ入道雲、それは嵐の予感。
浴衣を着た銅像といえば、大学の近くにいる彼。
水族館と夜の海といえば、江ノ島水族館で眺めた海月を思い出す。
薔薇の赤い色が処女という単語と組み合わさると、破瓜の痛みが蘇る。

繰り返しの中で、どんどん思考が巡っていく。極めて近しい場所に、違う道筋で思考を進める頭が4つ。頭の中を覗かれるのではという余計な思考を慌てて搔き消し、鉛筆を握りしめる。

晴れの日も嵐の日も、西郷さんは上野の山から灯台のように人間の営みを見守り続ける。
海月と破瓜というと、脳裏に浮かんだのは何故かオゾンの映画の1シーンだった。

灯台と17歳。
様々な情景が心に去来する。冷たい嵐に吹き込められた灯台の小さな部屋。
過去に観たことのある情景。写真だったか、現実だったか。もしかしたらこれから観るのかもしれない情景。それとも、メンバーの誰かの心の中に仕舞われた景色だろうか。

「どうしたの」
B子の声が、私を現実に呼び戻した。
「なんでもない。みんな書けた?ちょっと待って」

私は紙の余白に「郷愁」と書き付けた。

なんとなく気恥ずかしくて、紙を斜めに捧げもつ。
B子は「家族と休日といったらサザエさんだよね!」と言いながら自分の紙を眺めている。
Cが「これ、なんの心理テストすか」と問いかけた。
Aはおもむろに
「この答えはね、君たちが人生で求めているものや、大切なものが何かってことなんだよ」
目を剥いて顔を見合わせた3人に、弁明するようにしてAは言葉を連ねた。
「いやね、こないだやったら面白かったから、みんなの答えを組み合わせたらカルテット名の語源になるかなって思ったんだよぅ」

むくれた振りをする3人に、Aは言葉を継いだ。
「ほら、じゃあ一斉に言おう。せーの」
「愛」「優しい王様」「郷愁」
4人の笑い声が部屋を震わせた。
「愛だなんて、先輩らしいや」「そっちだって何よ、王様って」「郷愁に比べたら単純明快っすよ」「うるさい」
「ちなみにAの答えはなぁに?」
「俺は...青春だっ!」
くたびれたTシャツでそう威張り、身体をそらせた彼は、どうやら胸を張ったようだったが、残念ながら胸よりも腹のほうが突き出ていた。

「この4つを組み合わせるのか...郷愁なんて普段ですら使わないのに」
「どうしてこんな単語出てきたのかしら、ほんと謎」
「見せてください。...筆圧、つよっ!なんで夏の海と入道雲で嵐になるんすか。もっとなんかこう、夏休みー!とか、楽しいー!みたいにならないんすか」
「優しい王様にはわかんないんだよ」私が頬を膨らませると、Cは愉快そうに顔をくしゃくしゃにして笑った。
「4つ合わせると、愛に溢れた優しい王様は青春に郷愁を抱く?なんだそりゃ」
「まるで没落貴族ね。なんか、こう、諸行無常って感じ?」
平家物語の一節を唱え出した私に、3人が追随した。

共通の記憶を積み重ね、人は信頼を積み重ねていくのだろうか。
信じて欲しいなんて言葉、簡単に言うことは無いけれど、個々の性質を知っていてくれる人がいることの喜びに報いたいと願う。

チラシのデータを入稿し、Aの家を出た。
やがて来たる秋への準備が進みだす。きっと、この秋も楽しさは続くのだろう。
ひとりだと、記憶の断崖に挟まってにっちもさっちもいかなくなる私を、笑いながら受け入れてくれる人がいて、そのことは私を内側から温めてくれるのだ。これほどに愉快な気分はそうそう無い。

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