白は別に一色ではない

ユーリノルシュテインのアニメーション「はなしのはなし」を初めて観たのは、芸大の学部生だった頃の情報学の授業だった。
情報の授業の先生はユニークな方で、その割に私はその講義を全く覚えていないけれど私のレポートに対するお返事が面白かったことや、スティーブライヒの音楽について盛り上がったこと、車の趣味が近しいことで、勝手に親近感を感じていた。

いつだったかの授業で、先生はノルシュテインの「はなしのはなし」を上映したのだった。
私はいつも授業の途中に講義室の後ろから忍び込むような不埒者だったから、講義の文脈を理解していないのは当然なのだろう、ただ私はそのアニメーションを眺めていた。薄暗い講義室で。

上映が終わると先生は灯りをつけてこう言った。
「今はわからなくていい。でも人生の中で何回か観ると、必ず意味がわかるから」

私はその先生の声に混じる確固たるものを信じ、それから年に一度くらい思い出した時にこの作品を観た。
それは、卒業を控えた小春日和の昼下がりだったり、留学先で寂しい夜の寝酒のお供だったり、飛行機の上、雲を月光が照らす中だったりした。

この物語を理解できたのは、一年前表参道の小さな映画館で観た時だった。
青天の霹靂のように、その瞬間は訪れた。
全てのアイコンが、ポエトリーが、私の中で像を結んだ。
画面に現れていない奥行きを広げるのが自分自身の持つ背景なのだとしたら、4Dや3DXなんていらない。心の中に結ばれた像は、自身の心と結びつき、如何様にも変容する。

自分の中に積み上げられた情緒や経験や知性の階段を登って観た風景は、とても寂しくて、でも暖かかった。
私はその時、失恋の傷をまだ少し引きずっていたけれど、作品の中でリンゴやじゃがいもが出てきた時に、救われた心地がした。
ロシア人だった元恋人は、かつて私に「ロシアは貧しかったから、リンゴやじゃがいもしか食べられない時代があった。だから僕らはリンゴやじゃがいもを見るとそれを思い出す」と言っていた。
私は、作品の中のアイコンの持つ意味をその時理解した。
彼は私の人生から去っていったけれど、彼の言葉は私の中に残り、私を形成する一部になった。そのことを嫌だと思ったり、苦々しく思うことはやめようと決めた。
彼が教えてくれたのは、人を憎む心や欺瞞だけではなかった。彼と旅をしなければ、私はその表現に気がつくことなく生を終えていたことだろう。

人は生きている時に受けた傷を、生きることでしか癒せない。
受けた傷はやがて私を縁取る模様となることだろう。私はその傷を隠さないで生き続ける。

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