クローゼットは異世界への入り口

社交界に私がデビューしたのは、高校一年生の時だった。
日本で一番偏差値の高い高校と言われている(内実は全く違うのだけれど)学校に通う我々は、年に一度、芸術鑑賞教室と称しオペラ鑑賞、歌舞伎鑑賞、文楽鑑賞などに興じていた。

「オペラなんてつまんない」
「文楽とか、寝る」
一般的な高校で囁かれるような否定的な言葉は聴こえない。

「スカラ座、夏休みに聴きに行ったばかりだから、また聴けるなんて幸せだ」
「今日の黒御簾、俺の兄弟子が出てるわ」
「この公演、親父の会社がスポンサーだからもう観た」
父親がオペラ歌手、日舞の家元なんてのがごろごろいる。
私も例に違わず、小さい頃から楽屋に出入りしていたし、オペラやバレエも幼少期から親しんでいた。

そんな子供達の集う学校は、鑑賞教室に制服で向かうような不粋なことはしない。その日のオペラは、ロシアの劇場の来日公演だったから(しかも先輩のお父様からの全校生徒ご招待)、
その週のホームルームの時に、担任は「くれぐれも制服で行くような真似はしないように」と釘を刺した。

当時高校二年生だった私は、一つ学年上の先輩と付き合っていた。
「鑑賞教室の席は自由だってね」
帰り道、彼は私の通学鞄を持つとそう言った。
「解散も各自でしょう?あの演目なら夕方には終わるかな」
「それなら一緒に夕飯食べようよ」
付き合いだして3ヶ月。それまでのぎこちなさが取れて、会話のテンポは心地よい。私は快諾してから、自分が何を着ていけばいいか心当たりがないことに気がついた。

「社交界でデートなんて、どんな格好をしたらいいかわからない!」
その日、帰宅した私は開口一番母親にそう泣きついた。
「ワンピースは、この間ロンドンのハロッズで買った黒いのがあるじゃない」
「でもあのワンピース、ノースリーブだから冬は寒いよ」
騒ぐ私を横目に、母はウォークインクローゼットを開いて、私を導いた。
そのクローゼットは、かつて幼かった私の遊び場だった。
母のドレスや、祖母の訪問着が仕舞われたその部屋は、樟脳の香りと、白粉の香りが揺蕩う暗く暖かな空間だった。
そして同時に私にとってはかくれんぼの時のとっておきの隠れ場所でもあり、ナルニア国へ続く秘密の通路でもあった。

久しぶりに足を踏み入れたそこには、あの芳醇な森も、柔らかな榁のような空気も感じられなくて、ただ天井から毛皮のコートや革の鞄がいくつも吊るされているだけ。天井から吊るされた裸電球の灯りが、朱い陰を床に落としている。
母はそこに腕を差し入れ、暫し検分していたが、やがて私が着ても良いランクの毛皮を引っ張り出し、私にあてがった。
「この毛皮なら、中がいくら薄着でも大丈夫」
「ありがとう。私が着てもいいの」
「着ないと慣れないでしょう。30代になった時に良い服を着こなせるようになるための練習よ」
「...鞄はどうしたら良いの。その日土曜日だから、午前中は授業なのよ。私服登校は認められてるけど、勉強道具は持っていかなくちゃ」
「真面目な子ね。このヴィトンの頭陀袋に突っ込んでおけば良いでしょう」
母は、ピクニックの時に使っていたヴィトンの大きな巾着鞄を寄越しながら、言葉を継いだ。
「いい?彼にこれは持ってもらうのよ。そして毛皮と一緒にクロークに預けること。コートは彼に着せてもらうこと」
「そんなのどうでもいいじゃない」
「それと、まだあなた達は高校生だから食事は割り勘だけど、お店に入る前に彼にポチ袋か何かに入れたお金を渡しておきなさい。お会計時にあなたがお財布を出してはダメ」

社交界って面倒なんだなあ。

そんな気分と、ドキドキする気分が混在する。親の後ろをついていけば美味しいご飯にありつけた日々は終わるのだ。
私は彼にエスコートしてもらいながら、エスコートさせてあげるのだ。

シックなスーツに身を包み、髪をオールバックに撫でつけた彼に導かれて劇場のクロークの前に行くと、担任の先生がいた。普段学校で見かける姿よりも妖艶で、しかし可愛らしい。
隣に静かに男性が付き従っているのがみえた。その人が、去年卒業した先輩だということはすぐにわかったけれど、私も彼も特に騒ぎ立てず、挨拶をした。
男性が先生の背後に立ち、静かにコートを彼女の体から浮かせると、先生はマックスマーラのコートの下に、ベージュのタイトなドレスを纏っていた。光沢のあるそのドレスは、彼女の柔らかな肌と一体となって、赤い絨毯の上でつやつやと輝いている。
私もこんな風に歳が重ねられたら。
そんな風に思っている私の腕に、彼がそっと手を置いた。私は腕を持ち上げて毛皮を彼に預けた。遠くから聞こえる喧騒が肌を柔らかく震わせた。

クローゼットはもう私を異世界へ連れて行ってくれる場所ではない。
その代わり、私はクローゼットで変身して、自分の力で新しい世界に飛び込める。その妙義は歳を重ねるごとにどんどん複雑に愉快に展開していくのだと思うと、毎日毎日、昨日の自分と違う自分に出会えることが楽しくて仕方がない。
劇場の席が暗くなると、彼は私の唇にすばやくキスをした。冒険は、空想の外側にも広がっていく。

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