生きる意味を問うた私に

久しぶりに演奏をしていて涙で視界がぼやけそうになった。

12月。音楽家が慌ただしくなる頃である。ヘンデルのメサイア、ベートーヴェンの交響曲第9番、くるみ割り人形。
12月に弾くということは、練習するのはそれよりも前。師が走るのなら若手はその先に赤毛氈を広げるために倍速で走らなくてはならない。
季節を先取りしている我々は、イルミネーションを味わう余裕もない。きっと今頃、邦楽畑の人たちは新年の曲をさらっていることだろう。

「生きている間にあと何回この曲を弾けるだろう」
「生きている間にこの曲はどうしても弾きたい」
「いつになったらこのフレーズ満足のいくように弾けるのだろうね」「一生無理だね」
師匠や大師匠はそういう言葉を平気で話す。
過去の偉大な作曲家たちの残した優れた作品には、一生を賭してさえも到達できない山頂がそびえ立つ。
私は、若輩者ながらも先を進む師匠達の姿に必死でついていくしかない。
病床で、延命措置をつけられながらも指のエクササイズを怠らなかった師匠。80を越えても本番の反省を怠らず、次の演奏会に向けてさらう先生。杖をつきながら登場し、麻痺の軽い左手で棒を振る先生。
彼らの姿を見るたびに、私はそこから多くのことを学ぶ。

小学生の頃、生きる意味を考え続けて眠れなくなっていた小さな私に、彼らの姿を見せてあげたい。
生きる意味。それは生きることそのものなのだと。

ヘンデルが見ていた天国は、ここにあるのだ。きっと死んでしまったらこの天国は永遠に私の目の前に現れないのだろう。
この天国を見られないのなら、私は死したのち天国になどいきたくない。
死にたくない。いくら老醜を晒したとしても、生きて生きてあの高みに手を伸ばしたい。そのためなら命を差し出すことも厭わない。

どうして、世界はこれほどに美しいのだろう。願わくば、その美しさが壊れることなく未来永劫続いていきますように。
そう満月に祈りたくなった師走の夜でした。

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