芸大生と芸大生でない人の違い

その「女の子」は、開演時間の20分前になってもピットに姿を現さなかった。
コンマスの男性が、私が手を振ったことに気がつき、譜面台の脇に立った。
「あれ、隣の子、まだ来ていないの」
と彼は尋ねた。
「はい。泊まっているホテルに連絡して、部屋に電話もかけたのですが、それも繋がらなかったんです。私、彼女の連絡先知らなくて」
彼は一瞬無表情になった後に、ステージの裏へ消えていった。

ミュージカルのツアーの最終日だった。
何日も同じ演目を同じ会場で行なっていたため、その日はゲネプロ無しで本番が始まるところだった。
彼女とは、ツアーの前の合わせの時に初めて出会った。
ミッション系の私立の大学の文学部を卒業したばかりだという。
趣味で弾いていたヴァイオリンではアマチュアのオーケストラでコンサートミストレスを頼まれたり、コンチェルトを弾いていたらしい。
この春からヴィオラに持ち替えて仕事を始めたばかりなのだと、はにかみながら彼女は私に自己紹介をしていた。
開演まで、あと5分。
1ベルが鳴った。
彼女は姿を現さなかった。

芸大生と芸大生でない人の違いを、同級生と話したのはツアーの始まる前日だった。
その友人Aは、アマチュアのヴァイオリニストに月に3度、ヴァイオリンを教えていた。
「その人、自分が弾けていると思っているのよ。全然弾けてないの。太鼓の達人だったら満点かもしれないけど、物凄く下手なの」
譜面通りには弾けてるけど、あれはヴァイオリンを弾いているとは言えない。
モヒートのなかのミントをマドラーで潰しながら、Aは溜息をついた。
「そういう人に限って、演奏家の演奏にケチをつけたり、自分の演奏会を開きたがるんだよね」
私はジンバックを置きざまにそう言った。
そうなの!!とAは目を見開き、モヒートを煽った。
「この間その人も、アマオケでコンチェルト弾いたのよ。貴方には難しいから、もう少しレベルを下げろ、って言ったのに、私に内緒でブラームス」
私は焼鳥をつかもうとした手を引っ込め、
「うわあ。お客さんひたすら忍耐を試されたねそれ。どうなったんだろう」
と問いかけた。
「案の定酷い出来だったらしい。私の弟子がそのアマオケで弾いてたから、色々噂は聞いたよ。なんでも、見るに見かねて彼女に助言や注意をしてきた人が何人かいたらしいんだけど、その人ったら耳を貸さないの。それどころか、注意をしてきた人のことを『彼は何もわかってないんです。むかつく』ってボロクソに貶しながらのリハーサルだったみたい」
なんでわからないのかなあ、とAは先程よりも一層強くマドラーを上下させた。
「我々は、先生や共演者の助言を受け入れるということを当たり前に行ってきているけれど、その訓練が出来ていない人もいるんだろうね。
助言されただけなのに、人間性を否定されたと思ってしまうんだよ」
私は言葉を選びながら、そう伝えた。
隣でAは激しくうなづいている。
「そういう人は、自分を守るために、
相手を攻撃することしか出来ないの。
自分を変えることが出来ないの」

結局、ツアーの最終日はヴィオラの彼女がいないまま幕を開けた。
普段ならピットの隅でチューニングの合図を寄越すサブディレクターが、今日は見当たらなかった。
チューニングの暇もなく、頭上で客席が暗転し、指揮者がやってきた。
昨晩の公演が終わった後にホテルの近くの居酒屋で飲んだ時の、彼女の上気した頰が脳裏に浮かんだ。
彼女は事故に遭っているのではないだろうか。
不安が顔に出ていたらしい。
「集中しろ」
コンマスの男性が私に視線を向け、睨みを利かせた。
わかってます、私は曲が始まる前に眉をくっと上げ、彼のサインに応えた。
指揮棒に合わせて最初の和音が響く。
おっと、、チューニングが出来なかったから、それぞれの音がバラバラだ。
ヴァイオリンは私よりも調弦が高め。
でもチェロとコントラバスはそれよりも1.5ヘルツくらい低めを取っている。
何よりも、ヴィオラのパートを弾いているのは今は私一人しかいない。二人で分けて弾いていた部分も私が弾かなくてはいけない。
ヴィオラの私はどの音程を取るべき?
どの音を弾いて、どの音を捨てる?
譜面を俯瞰して眺めながら、私は和音の構成音を編み出して、弾きながら音程を選びとっていった。
まるでぷよぷよのゲームをやってるみたいだ。
前半が終わりに近づき、コンマスの男性の目線の鋭さが少し和らいだ時、そんな考えが頭によぎった。
数小節先の音を見極めながら、今現在の音を出していく。
私は今、職人だ。

休憩の合間に下手の舞台袖に行くと、コンマスの彼が私を見るなり
「彼女、遅刻だって。開演時間を間違えていたらしい。もうすぐ来るから、後半には間に合うだろう」
後ろにいたチェロの男性が
「やっちゃったなあ。これで彼女、次は無いな」
と面白そうに呟いた。
気まずい空気がオーケストラの中に流れる。
ややしてから、指揮者が
「まぁ、事故に遭ってなくて本当に良かった」
と呟いた。その指揮者が、今回そのヴィオラの彼女を紹介したのだった。
第二部の開幕を告げるベルが鳴ると同時に、ピットに彼女が駆け込んできた。

ピットで走らないで!
彼女の足音を聞いた奏者は、皆そう思ったに違いない。
ピットの中はとても狭く、譜面台やケーブルが所狭しとひしめき合う場所だ。
そんなところで走るものなら、たちまちつまづいて楽器に危害を加えることになる。
自分の楽器だけでなく、他の奏者の楽器に倒れた譜面台がぶつかりでもしたら、本当に取り返しがつかない。
奏者は一斉に彼女を見やった。
そして、みんながはっと息をつぐんだ。席に着いた彼女は、涙と汗で顔をぐちゃぐちゃにしていたのだった。

彼女は私の隣で演奏中ずっと泣き続けた。
この業界で合わせや本番に遅刻をすることは致命的である。
まず次の仕事には呼んでもらえない。
だから、彼女の涙の意味は痛いほどわかる。
しかし、私は隣で弾く彼女に対する憎悪を、抑えることが難しかった。
隣の彼女は、席に着いても謝りもせず、泣き続けた。
チューニングを始めても、おざなりに弦を弓で擦り、タオルで目を擦っただけだった。
その彼女は今、私の隣でどんどんテンポを後ろに後ろに引っ張っている。
楽日なのに。漸く曲目が馴染み、最高のコンディションになっていてしかるべきなのに。
昨日まで見えていた到達点が急速に遠ざかるのは、私の走る速度よりも遥かに速かった。
泣いている場合か。
プロなら今は演奏に集中してくれ。
自分の保身の前に、今創り出している世界を見つめてくれ。
私は大声で叫びたかった。
隣の彼女に動揺してしまう自分が腹立たしく、それも許せなかった。

ツアーが終わり帰京した私は、Aを呼び出した。
根津のうどん屋で私はAに、彼女が最終日に来なかった話を簡潔に話した。
話が進むにつれ、Aは目を丸くして、その後に眉を寄せた。
「許せない。
失敗したって、その場で最善を尽くすのがプロじゃないの。
その人、絶対に私立のお嬢様大学出てるって」
Aは漬物のきゅうりを飲み込むと、そう言った。
今日は二人の前には日本酒が置かれている。
「人を大学で判断しちゃダメだよ」
「大学で判断するというか、育ってきたバックグラウンドだよね。
優先順位や、相手が何を欲しているか理解する力が備わっているかどうか。
それと、自分の目指す方向を認識する力があるかどうか」
Aはそう言って、板わさを頬張った。
私もつられてひとつ口に含んだ。
すりたての山葵の香りが鼻腔に広がる。
「演奏家になりたい、って単純な夢だって、演奏家である自分に憧れているのと、音楽の本質を希求するのは全くの別物だもんね」
「前者は大抵、音楽に身を捧げる前に、音楽家である自分を守ろうとする」
Aは猪口を干し、卓上に置いた。
木がコン、と鳴った。
「いいよ、そういう人はそれで見える景色で満足なんだから」
向かい合う大きな窓の向こうには深い闇が広がっていた。

「でも、私はそんな人と一緒に仕事をしたくない」
私の呟きは、闇に吸い込まれていった。

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素人の写真がプロの20倍以上の値段で売れる理由こちらの記事を読んでからモヤモヤしていたものを消化しました。
別荘にいても、あまりゆっくりできませんでした。ただいま。

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