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生きることとその対価

音に感情を乗せるのが得意だった。
音で感動を与えるのが好きだった。

私のピアノの音で泣いた人がいたこと
私のピアノを憧れだと追いかけた人がいたこと
それがその証であり、根拠なのだ。


「悲しい音でピアノを弾くね」
そうだ、私はずっと悲しかった。
何かに怯えて、恐怖して、ただ逃げたかった。

短調の曲ばかりを好んだのは感情を乗せやすいから。
ずっと何か、得体の知れない何かに怖がっては、その事実が何より悲しかった。ただ悲しかった。


作曲家の、曲の、意図を考えれば考えるほどのめり込んでいった。抜け出せない迄に。
自分の音に涙を流した時にようやく気付いたが、その時にはもう遅かったのだ。

ピアノを弾いていなければ、自分は精神疾患と戦わずに済んだのかもしれない。
でもそれは同時に、今の自分を構成する全てが変わることを意味していた。

いくら考えても想像ができない。
ピアノが無い、ピアノを弾かない自分など、生活など、納得がいかない。


人の演奏を聴いて心底羨ましいと思う気持ちと、劣等感や嫉妬に襲われる。まだ私がピアノを愛している証拠だろう。

諦めが悪い人間だ。さっさと辞めて逃げてしまえばいいものを、今もまだ縋って手を伸ばそうとするのか。なんとも惨めで滑稽だ。叶わない夢だと分かっているのに。


それでもまだ、それでもまた、弾きたいと思う。強く願う。
ピアノがここに、私の存在する価値のうちの一つにあって欲しいと思う。愛している。


物心ついた頃にはピアノがあった。生活の一部だった。
いや、私の一部だった。今更辞めるなど、両腕を失うのと変わらないのだ。


一生逃げられない、辞められない。永遠に、生涯縛られ続けるのだろう。それもまた悲しく、その反面嬉しかった。


ピアノを辞める選択肢を自らが下せないなら死んでしまおう。というのは何度も考えた。思った。苦しんだ。

その度に思うのは「まだあの曲を弾けていない」

ピアノは私の生きる理由なのでは無いか。もうそれでいいじゃないか。生きる理由なんて探し集めなくても、十分なほどここにあるじゃないか。


「生きている音がする」
そう言って私のピアノを好きだと言った人がいた。


悲しいも、嬉しいも、怒りも苦しみも、どんな感情であっても、生きているからこそ感じられるものだ。
「生きている音」これ以上の褒め言葉があるだろうか。


生きているから私は音を奏で、誰かの感情を刺激し、自らの感情を揺さぶることが出来るのだ。死んでたまるか。
まだ弾いていない憧れの名曲は山ほどあるだろう。

その曲たちを弾いてから死ぬかどうかは考えることにしよう。そうしよう。
死ぬのはきっと今では無い。


私に音楽があったこと、ピアノがあったこと。
ただ今はそれを誇りに思いたい。胸を張りたい。

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