「見られること」について(金川→細谷① : 2020,03/12)

2021年度開催の ななめな学校 連続ワークショップ における 金川晋吾さんの授業「夏への扉 日記をつける、写真をとる」のための往復書簡で、金川さんとななめな学校ディレクター細谷でやり取りしています。
これは金川さんから細谷への1通目の書簡です。

細谷さま

こんにちは。
往復書簡というかたちでのやりとりを提案していただきありがとうございます。
細谷さんがこれまでのやり方や枠組みよりも、私という個人のやり方につき合っていくことを優先しようとしてくれていて、しかもそうすることを細谷さん本人がおもしろがってくれているのがわかるので、なんというか本当にありがたいというか、励まされるような気持ちです。これからどうぞよろしくお願いいたします。

「このWSが形式的なタイプではなく直感的で内省的なタイプのWSになるのではないか」というのはおそらくそうなると私も思います。私がこれまでやってきた「日記を読む会」も、形式がしっかり決まっているわけではなくて、そのとき参加してくれた人たち次第で変化していくところがあります。今回のワークショップもそういうものになるだろうと思います。

 細谷さんが投げかけてくれた「見られることをあまり意識していないのではないか(だから、ああいう写真や文章になるのではないか)」という問いに答えさせてもらいますね。こういう問いを投げかけてもらうことで、自分のことについて考えていくことができ、話もしやすくなるのでありがたいです。
 まず言うと、私は写真においても文章においても見られることはかなり意識していると思います。もしかしたら、細谷さんが言っているような意味での見られることへの意識とはちがうのかもしれませんが、意識しているかしていないかどちらかと訊かれたら、はっきりと「している」と言うことになります。

 まず写真ですが、写真を撮ること全般について話すのはなかなかむずかしいので、とりあえずここでは父を撮った作品「father」についてお話しますね。父を撮りはじめたのは2008年の11月なのですが、あのときは父を撮ることで何か作品をつくりたいと、つまり誰かに見せるものにしたいと思ってはじめています。実際に撮影するときにも、父にこれから写真を撮ることを伝え、ポーズを撮ってもらったうえで撮影しています。たまにスナップショット的に、父に声をかけずにシャッターをきることもないことはなかったですが、写真集のなかに入っている写真はすべて声をかけたうえで撮影しています。
 細谷さんは「father」の写真に対して「撮った時の状態のままが写真集に収められているように感じます」と言ってくれていますが、これは私にとってうれしいことで、そういう写真にしたいと思っているから父に声をかけたうえで写真を撮っているという部分があります。見られることに気を使わないのではなくて、ある程度気を使ってコントロールすることで余計なものや邪魔なものがあまり入りこまないようにしているという感じでしょうか。
 ただ、気を使うといっても写真はコントロールしきれるものではいので、ほとんどの部分はそこにあるものが写ってくるのにまかせることになります。画面を構成しようとしながらも、「まあこんな感じかな」という適当なところでシャッターを切ります。写真の場合、撮る人が何を考えていようが(あるいはなにも考えていなくても)とりあえずシャッターを切ってしまえばひとつの完成したイメージが出来上がるので、そこが自分には合っていると思っています。ただ、写真のそういう特性ゆえに、撮影者の意識とその撮られたイメージとの関係というものは、とても微妙でとらえにくいものになるのでしょう。というか、そもそも写真というものは、そういう撮る人の意識とか意志みたいな言葉で記述することに向いていないのだと思います。國分さんの中動態にかんする本は私にとっても大変刺激的だったのですが、それは中動態の話は写真の話にもってくることができると思ったからです。

 次に文章について。私は文章を書いてそれを人に見せることができる状態にもっていくまでに、かなり時間がかかってしまうのですが、それはやっぱり見られる(読まれる)ことを意識しているからだと思います。もうちょっとなんとかならないかとも思っているので、今回の往復書簡ではあんまり気にし過ぎずにざっと書くということに挑戦したと思っています(と言ってもなかなかうまくできないのですが)。
 まずそもそも、私は適当にざっと書いたのでは、その文章は文法的に正しくないものになってしまうことがほとんどです。書く前に書くことがきちんと決まっていなかったり、はっきりしないことを書こうとするからそうなるのだと思うのですが、書きながら主語が曖昧になったり、能動なのか受動なのか使役なのか混乱することがあります。文章がうまい人というのは、すらすら書いてもそれがちゃんとした文章になるのだと思いますが、私にはそういうことはできません。だから、とりあえずざっと書いて、それをあとから他人が読めるかたちに修正していく作業が必要になります。そういう意味で、どうしても文章を書くときには誰かに読まれることを意識することになります。 
 もうひとつ、私には何かを言おうとし過ぎてしまうことへの抵抗感というか懸念が強くあります。あるいはそれは怖れと言ってもいいかもしれません。この怖れは、ときに何かを言い切ってしまうことへの怖れにもなってしまいます。何か自分の根深いところに言い過ぎてしまうことへの怖れがあるのだと思います。これは自分の特性であり、そういう考え方を実際にしているわけなので、これはこれでいいのだと思うのですが、一方で、ただ言葉になることを怖がっているだけのところもあって、それはあんまり好ましくないと思っています。そこには何か矛盾のようなものがある気がします。何かを言うために文章を書いているのだから、言い切ることが必要なときもありますよね。怖がったってあんまりいいことはないと思います。
 
文章の場合は、「まちがっている文章」「完成していない文章」というのが存在しますが、それに対して写真の場合を考えると、「まちがっている写真」「完成していない写真」というものは存在していないと思います。露出不足で真っ黒になったり、その逆に真っ白になったり、ブレブレで何が写っているのか全然わからないということはありますが、それでもひとつのイメージとしては完成していますし、露出の過不足であったり、カメラがぶれていたことなどが正しくそこに写されていることになります。基本的に写真というのはほとんど何もしなくていい、逆に言うとほとんど何もできないメディアだと思います。
 文章だってコントロールしきれるものなんかでは当然ないのですが、写真に比べると削ったり付け足したり、いろいろとかたちを変えることができます。自分の思うままに扱うことなんて全然できませんが、私にとっては表現の自由度は、写真よりも言葉のほうが高いです。
 写真も言葉も、自分ではコントロールしきれないもの、うまく扱いきれないものとしてあって、そういう意味で両方ともに自分にとっては他者です。ただ、写真のほうが文章よりももっと他者だという感じがしていますが、それはほとんど何もすることがない、できないということであったり、それがひとつの完成したイメージであることなどからそういうふうに感じているのだと思います。

 見られることの意識についてつけ加えておくと、文章の場合はたしかに誰かに見られる(読まれる)ことを意識していると言えると思うのですが、写真の場合は誰かに見られることを意識しているというよりも、そのイメージがどういうイメージになるのかを意識しているという言い方のほうがしっくりくるところがあります。この言い換えによって、自分が何を言おうとしているのかはまだよくわかっていないのですが、写真の場合はそれを見る誰か他者の存在が、文章に比べて希薄というか、写真のほうは必ずしも他者の存在を必要としていないということなのかもしれません。よくわかりませんが。
 細谷さんが私の作品に対して、見られることを意識していないように感じたというのは、とてもわかる気がしますし、見られることであったり、またそのことへの意識を問題にしたのは、適切な問いかけだと思います。見られることを意識しているかしていないかというのは、実は白黒はっきりできることではなくて、意識のそういう曖昧さ、とらえどころのなさに私は関心があるのだと思います。そういうところで日記へと関心がつながっている部分はあるのかもしれません。

 答えられていないことはいろいろと残っていますが、ちゃんとまとめようとしてもいつまでもまとまらない気がするので、とりあえず今回はこれぐらいにしておきます。せっかくの往復書簡なので細谷さんとのやりとりのなかで考えていけたらと思います。

 最後に、「休みの日にギャラリーや美術館に行きますか」という質問ですね。ギャラリーや美術館には行きますよ。ただ、私はフリーのカメラマンの仕事をしているのですが、そんなに仕事をいっぱいしているわけではないので、いわゆる「休みの日」みたいなのがあるわけではないんです。もう少し仕事をしないとやばいなと思っています。
 最近見たおすすめの展覧会というのは、あまりぱっとは思い浮かばなくて、もうけっこう前に終わってしまったものしかないのですが、これから見に行く予定のおすすめはあります。展覧会じゃなくて上映会ですが、3月15日イメージフォーラムでやっている大木裕之さんの「松前くんの映画1989-2019」と、3月21日22日東中野のポレポレ座でおこなわれる「Experimental Film Culture vol.2」というのには行こうと思っています。もし細谷さんもタイミングが合えばぜひ。
http://www.imageforum.co.jp/cinematheque/1028/index.html  
https://pole2za.com/event/2020-3-20-21.html

2020年3月12日
金川晋吾

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■この書簡に対するディレクター細谷の返信はこちら

金川晋吾(かながわしんご)・ 1981年、京都府生まれ。写真家。千の葉の芸術祭参加作家。神戸大学卒業後、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。2010年、第12回三木淳賞受賞。2016年、写真集『father』刊行(青幻社)。写真家としての活動の傍ら、「日記を読む会」を主催している。
近著は小説家太田靖久との共作『犬たちの状態』(フィルムアート社)

▼千の葉の芸術祭WEB

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