「はじまり」(細谷→金川① : 2020,02/23)

2021年度開催の ななめな学校 連続ワークショップ における 金川晋吾さんの授業「夏への扉 日記をつける、写真をとる」のための往復書簡で、金川さんとななめな学校ディレクター細谷でやり取りしています。
これは細谷から金川さんへの1通目の書簡です。

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金川晋吾様

お世話になっております。
先日の打合せからあっという間に時間が過ぎてしまいました。

先日、往復書簡(公開交換日記と言い換えてもいいのですが)を提案したのは、あの場でもお伝えしました通り、金川さんと大崎さんの往復書簡の内容が非常に自由で私的で刺激的だったということもあるのですが、今回のWSが参加者募集から実際に開始するまでにかなりのタイムラグが出来てしまうということが一番の理由です(※1)。

もう大まかなWSの内容を仮決定し、参加者募集を開始しなければならない時期となってしまいました。
現時点から「写真と文章」など、絶対的な軸は変わらないでしょう。
しかし、その軸とどのような距離感を持って、具体的にどのようなWSを行うかはまだぼんやりとしており、これから様々なドライブを経て収斂していくと思います。(WSの内容は開始直前まで揺れ動くと思いますし、その時点の金川さんの興味や感情が反映されていた方が面白いので、それでよいと思っています。それはこのWSが形式的なタイプではなく直感的で内省的なタイプのWSになるのではないかと予感しているからです。)
とすると、募集時(現時点)で考えているWS内容と実際の内容が乖離してしまう可能性があります。
なので、この往復書簡をWS参加予定者にも読んでいただいてそのプロセスを共有してもらえれば、WSにスムーズに入っていけるのではないかと考えたのです。

とはいえ、フィジカルなWSの内容のやり取りを公開してもしょうがないので、この書簡ではパーソナルな内容(金川さんの思考やお互いが今興味のあることについて)を語り合いつつ、その時々の書簡上のテーマが、どうWSとつながるのか(はたまたつながらないのか)にもそれとなく触れられたらと考えています。

この書簡は不特定多数に見られることを前提としていますので、まずは前段として往復書簡を実施する意図を簡単に説明しました。

けれど、今後のやり取りはパーソナルなものとなった方が面白いと思っていますし、(どちらも良し悪しがあるのですが)推敲を重ねた構築的な文章よりも、揺らぎのある瞬間的な文章の方が面白いのではないかと思っています(途中から、金川さんのNY滞在日記のようになったとしても面白いです)。そしてある程度のスピード感でやり取りできるのが理想かなと思っています(と言っておきながら、前回の打合せからかなりの時間がたってしまっており誠に申し訳ないです…)。

前回の打合せ以降考えたことが沢山あるのですが、全てを詰め込まずに、まずは今回のWSの軸となるであろう「写真と文章」に絞って書きます。

最初にお会いした時に「金川さんは「写真家」という肩書でありながら写真集に日記を収録し、様々な媒体で文章を発表されていますが、金川さんは「写真」と「文章」の関係性をどのように捉えていますか?「文章」は「写真」を補完するものですか?」とご質問しました。それに対して「写真と文章は補完関係にあるのではなく、どちらも独立していて対等に並置される関係にある」というニュアンスのお答えをされたかと思います。
僕はその答えに非常に興味が湧き、あわててネット上にある金川さんの文章を読み漁ったのでした。
その結果、前回の打合せは「文章」に重きを置いた内容になってしまったような気がしますが、その打合せを踏まえて再度考えたことは、「写真」にも「文章」にも非常に様々な側面があるという至極当たり前のことです。
どちらも、自分の生活を記録したもの(家族写真/日記)から、不特定多数に見られる前提のもの(商業写真や写真家として発表する作品/エッセイや紹介文など)まであると同時に、ただ状況や心境を素直に切り取った「未加工」のものから、小説や計算しつくされた上でシャッターが押された「つくられた」もの(最近では撮った後にPC上でどれほどレタッチするかという問題もありますね)まであるということです。

その時にキーとなるのが「見られること」をどれほど意識するかだと思いました。

金川さんの場合、完全に「つくられた」もの(フィクション作品)はほとんどないかと思いますが、fatherには金川さんが撮影したお父様と、金川さんの指示によりお父様が自撮りで撮りためた写真(前者は「作品」として発表することを意識して撮られており、後者は(少なくともお父様自身は)全く見られることを意識せずに撮られていると思います)が並置して収められており、webで「金川晋吾 文章」と検索すると日記から実話とフィクションの間のような文章(晶文社スクラップブックの「信仰の経緯」)まで多様な文章が出てきます。
これらを拝見して感じたことは、一般的な写真家や文筆家と比べて金川さんは「見られること」を意識していないのではないか、ということです。

勿論、商業的な写真を撮る際には相応に「見られること」意識されていると思いますが、それ以外の金川さん自身から発信される写真には「見られること」に対して無理に気を使っていないように感じます(インフルエンサーがインスタにアップする写真と対極にあると言えばわかりやすいでしょうか)。例えば先述したfatherの写真も、そもそもは発表するつもりもなく撮りはじめたのではないか、と思うのです。そして発表すると決めたときも、あまりそのことを意識してトリートメントなどせず、撮った時の状態のままが写真集に収められているように感じます。それが、大崎さんが往復書簡の中で金川さんの写真を評した「誰かがただ「いる」感じ」を引き起こしているのではないかと思いますし、國分功一郎さんの「中動態」の概念に通じているのだと思います。(読み手を意識して「中動態」について簡単に説明しようかと思いましたがやめました。我々が共通認識できていることについての説明は省きましょう。)
それは金川さんの文章との関わり方にも通じており、「日記を読む会」を実施されているのはまさにそのことを示していると思います。「見られること」を全く意識せずに書いた日記を、後から判断して(限られた範囲に対してのみ)「公開する」というプロセスは金川さんの作品制作のすべてに通じているように感じます。

また、写真と文章の関係についてですが、こちらは発表されたものだけ見ると補完関係になっていると思います。ただ、形にした時点のことを考えると写真でしか残せないことは写真で、文章でしか残せないことは文章で残している(というか、これは私がそうなのですが、写真化/文章化して定常状態とすることで整理している)のだろうと思います。
なので、どちらも独立して対等関係にあるというのは非常に納得がいきます。
余談ですが、NHK取材時の日記(晶文社スクラップブック)に「(父親を撮影するシーンを映像に納めたいと度々要望されるが)父を撮ることへの興味を(すでに)失くしている」と何度か書かれていることも興味深いです。

長くなってしまったので一旦このあたりで終わらせます。
まずはWSの先生である金川さんがどういった方なのかが多少なりとも参加希望者に伝わり、興味を持ってくださる方が増えるとよいなと思いながら書きました。

少しWSにつながるメモをしておくと、やはり自分の中に何があるか、ルーツとなっているものは何かを掘り起こすようなWSが良いのかなと思っています。

最後にフランクな質問です。
お休みの時に美術館やギャラリーなど行かれたりしますか?最近行かれた展覧会でおすすめのものがあれば教えてください。

追記:この往復書簡にも写真を入れようとの提案ありがとうございます。どんな写真を選ぶべきなのか非常に悩んだのですが、あまり昔の写真を引っ張ってきてもしょうがないと思い、昨年末に行ったNYで撮った写真から直感で3枚選びました。

2020 02/23 ななめな学校ディレクター 細谷

※1:2020年前半は金川さんがNY滞在予定だったため、この授業のスタートが他の授業に比べて遅くなってしまうという事情があった。参加者募集はどの授業も一斉に行う予定だったので、この授業だけ参加者募集から授業開始までに時間が空いてしまうことが懸念されていた。

■この書簡に対する金川さんの返信はこちら

金川晋吾(かながわしんご)・ 1981年、京都府生まれ。写真家。千の葉の芸術祭参加作家。神戸大学卒業後、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。2010年、第12回三木淳賞受賞。2016年、写真集『father』刊行(青幻社)。写真家としての活動の傍ら、「日記を読む会」を主催している。
近著は小説家太田靖久との共作『犬たちの状態』(フィルムアート社)

▼千の葉の芸術祭WEB


▼ななめな学校WEB


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