2021年度開催の ななめな学校 連続ワークショップ における 金川晋吾さんの授業「夏への扉 日記をつける、写真をとる」の往復書簡で、金川さんとななめな学校ディレクター細谷でやり取りしています。
これは細谷から金川さんへの書簡で、WS四回目のレポートです。


金川様

ばたばたと時間が過ぎてしまい、4回目のWSから一週間近く経って、やっとこの書簡を書いています。

4回目のWSのために、金川さんが

・みなさんにとって日記を書くとはどういうものか、どういう意味をもっているか。
この1か月半で変化はありましたか。
・書くことへのモチベーションはどうなっているか。どういうモチベーションか。
・「表現」というものとの関わり。
表現への興味というのはありますか?

とテーマをたててくださり、これに対し、参加者が順番に話していく形でWSは進みました。

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今回のレポートでは、この金川さんの問いに対し、僕自身はどうなのかを考えてみることにしました。


まず、僕と金川さんはお試しで5月から日記をつけはじめたので、既に2か月半以上も日記をつけています。最初の1か月(WSが始まるまで)は、なるべくたくさん(しかも自分の内面を)書こうとしていました。これはかなり大変でしたが、日記とはそういうもの(自分と向き合うための道具)だろうと思っていたので、頑張って書きました。
WS開始以降は、僕は日記をつけないつもりでした。しかし二回目のWSの後に気が変わって、負担にならないやり方で続けることにしました。気が変わった一番の理由はWS内でも話した通り、僕以外の全参加者(金川さん含む)には「自分の記録を提示し、他参加者の記録を読む」という関係があって、それはギブアンドテイクというか「交換」によって成り立つ関係性に感じられたからです。僕だけが何も提供せず受け取るだけの人間でいることに違和感があったのです。ただ、もう一つの理由としては、皆さんの日記と写真を見るのが面白く、数年後に皆さんの記録を見返したときに、きっと「同じ時期に僕自身は何をしていて何を考えていたんだろう」と思うだろうなと感じたからです。
WSが始まってからの日記は写真を中心とし、言葉を短くしました。それは、言葉を連ねることが自分にとってはかなり時間がかかることであるということと、写真さえあれば振り返ってみたときにある程度、その時のことを思い出せるのではないかと考えたことによります。また、言葉を短くしたのは、日記をより自分のためのものとする意識が働いたからでもあります。感情にしても出来事にしても、自分のための記録であれば最低限のことで良い。
「見ようとすればこそ見えるものがある」とだけ日記に書いた日がありますが、自分ではその言葉だけでその時の気持ちを思い出せるし、「〇〇に行った」と書けば、一緒にいた人を思い出せる。それで十分に思えたのです。
金川さんの問いに答えると、私にとって日記とは「未来の自分のために、現在の自分の出来事や考えを記しておくもの」ということになります。そして、この2か月半での変化としては、最初はいつ読んでも正確に思い出せるように丁寧に書いていた(同時に、他人が読んでもある程度わかるようにという気持ちもあった)が、次第にキーワードだけを書いておくようになり、それは「数年後そのキーワードだけでは詳細まで思い出せないようになっても構わない、忘れるものはその程度のものだ」という気持ちの変化があったからです。
もう一つの変化としては、仕事のことを書くことのハードルが低くなりました。当初は、自ら日記に持ち出した話は、丁寧に正確に記述しなければならないという気持ちが強かったので仕事のことは書けなかったのですが(仕事にはどうしても秘密事項が沢山含まれるため、丁寧に書こうとすると難しかった)、キーワードだけで良いことにしてからは、仕事のこと(進捗状況などを簡単にメモ)が書きやすくなりました。結果、こういったシンプルな出来事だけを記録する日も増えました。


写真について考えると、こちらも本当は仕事の写真を残すのが記録としては一番簡単であるし正確です。実際、このWS期間中に一番撮っているのは仕事の写真です。しかし、それはさすがに出せないものが多いので、このWSの日記にはほとんど載せていません。代わりに撮りたいと思っているのは何でもない日常のちょっとした美しい瞬間や風景なのですが、なかなか難しいです。街中で非日常な風景を見つけると思わずカメラを向けてしまいますが、そういう写真は状況は面白いけれど、結局あまり良いと思えないことが多いです。また「記録」としての写真も増え、そういった写真は目的は果たしていますが、こちらも見返してもワクワクしません。


表現についてですが、いかなる方法でも「表現する」ことは面白いと思っています。しかし、そのアウトプットが「自分の作品である」と主張したい気持ちはほとんどありません。
例えば、絵を描くのは好きですが、ただ単純に「絵を描く」ということが自分にとっては大事で、見た人に「この絵はあなたが描いた絵なんですね」と認識してほしいという欲は全くないのです。むしろもし仮に発表するなら自分とは別人格の誰かの作品として発表したいくらいです。この感覚は仕事に関してもあって、本業の施主に「ななめな学校」のことや千葉市で主催している他イベントのことを特に知ってほしいとは思わないですし、「ななめな学校ディレクター」としての僕と知り合った人に(求められなければ)特段他の仕事のことを説明しようとは思わないです。
そういう意味では、日記には全部の肩書の自分が現れているので少し気恥ずかしい。その気恥ずかしさを自分で認識した日の日記は「説明的(他人の目を意識している)」になっているように(読み返してみて)感じました。



ただ、上記のことが目的であるなら、僕の場合は日記をずっと書かなくてもいいかもしれないとも思いました。それは、以前の書簡でも少し触れましたが、僕が「設計」という仕事をしているからだと思います。毎回違う案件と向き合っているので仕事の記録を見れば「あの時何やっていたっけ?」となることはほとんどないですし、それぞれのプロジェクトノートを見れば、その時自分が何に興味があって、何に向き合っていたのかを短いメモやスケッチから思い出すことができます。参加者の方が「昔の日記を見返すと過去の自分に勇気づけられる」という趣旨のことを仰っていましたが(正確に書くと「昔の日記を見返すと過去の自分を褒めてあげたくもなるので、日記を書くということは未来の自分から励まして貰うことでもあるから、日記を書き続けていると『現在の自分』は過去の自分と未来の自分の両方から励まされるのだ」と仰っていて、これはとても面白い感覚だなと思いました)、僕もたまに大昔のスケッチやメモを見ると、自分が興味や疑問を持っている内容がそんなにぶれていなくて励まされる感覚があります。


一方、このノートには自分の内側から発せられたメモやスケッチしか残っていません。勿論その時期に撮った写真を携帯やPCのフォルダから探し出せば見ることは出来ますが、自分の「内面」と「その時見ていたもの」を同時に保存は出来ていない。
今回、このWSを通して、コンスタントに写真をとることの面白さ、しかもそれを日記と一緒に記録として残すことの面白さを感じています。
それは「写真を撮る」という行為が自分にとってはインプットであると気が付いたからです。
僕は「インプット」と「アウトプット」という意識がつよくて、この二つがいいバランスでないと疲れてしまいます。そして僕にとっては何か作業をすることは全てアウトプットなので、仕事のアイデアを考えるのは勿論のこと、エクセル作業も料理をするのも全てアウトプットと捉えています。一方、インプットは展示や映画を見たり、友人と話したり、音楽を聴いたり、食事をとったりすることです。
写真は、「モノとして形が残るものを生み出す」という意味ではアウトプットなのですが、僕は気になったものや心動かされたものを後から見返すために写真を撮ることが多いので、写真を撮るという行為は基本的にインプットといえます。今まであまり意識したことは無かったのですが、今回それにはっきりと気が付き、日記という内面を記述したもの(アウトプット)と、写真というその時見ていたもの(インプット)を同時に記録するということがかなり面白いなと気づきました。そして僕にとっては、創作意欲を掻き立てられれば掻き立てられるほど「良いインプット」なのですが、日記につけられた写真がそういう写真であればあるほど、見返した時にわくわくするのだと気が付きました。



さて、前回の書簡で金川さんが書いてくださった「個人的なことは政治的なこと」「ああいう声が本人のなかだけに留まらずに、いろんな人に届けられたほうがいい」というのはとても大事なことだと思います。恐れずに自己開示した結果、思いがけないたくさんの反応や助けを得、同時に、同様のことを思っていたけれど口に出せなかったたくさんの人を勇気づけることになることもあると思います。既に、参加者間の限られた公開の場において、それを感じている方もいらっしゃると思います。それが、展覧会でもう少し広い範囲に開示されると、また違った反応が起こるはずで、参加者にはそこに足を踏み出してみて欲しい気持ちもあります。
一方で、今回のWSにて「秘密を開示したほうが盛り上がるとはわかっている」と話した方がいらっしゃったことが少し気になりました。もし、開示したい秘密があるけれどどうしようか逡巡しているというのなら、少しだけでも開示してみればとそそのかしたい気分ですが、開示したいことなんて一つもないのに「この場では自己開示しないといけないのではないか」と参加者が感じていてしまったならそれは我々が望んでいるものとは違うのだということは伝えておきたいと思いました。


次回はいよいよ最終回ですね。
展覧会のことなど色々大変ですが、僕自身も気づきの多いWSでとても楽しんでいます。
引き続きよろしくお願いいたします。


2021年07月24日 ななめな学校ディレクター 細谷

■ひとつ前の書簡はこちら

金川晋吾(かながわしんご)・ 1981年、京都府生まれ。写真家。千の葉の芸術祭参加作家。神戸大学卒業後、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。2010年、第12回三木淳賞受賞。2016年、写真集『father』刊行(青幻社)。写真家としての活動の傍ら、「日記を読む会」を主催している。
近著は小説家太田靖久との共作『犬たちの状態』(フィルムアート社)

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