食わず嫌いしたくないと思っても、やっぱり受け付けないものはある


「試してみたけどやっぱりダメだった。」


『食わず嫌いはよくないから試してみたけど、それでもダメだった』という時に私が自分自身を納得させるために言う言葉がこれだ。

実際に見るなり聴くなりしてもいないのに、「なんか無理なんだよね」と勝手な判断を下さないように心がけている。


食べ物でも、食べた上で「うっ」と戻してしまいそうな感覚があったり、お腹を壊したりすればもう食べるのをやめるけど、そうなる前から『食わず嫌い』にはならないようにしている。

美味しいお店で食べたら「〇〇は無理」から「食べるお店による(ものによる)」に変わって苦手意識がある程度克服できる時もあるけど、試した上で合わないとわかれば、それからは積極的に手をつけようとはしなくなる。

合わないものに無理に合わせようとする必要はないからだ。



『食わず嫌い』をしないようにしているのはnoteでも同じだ。


なにか学べることがあるかもしれないと思って読みにいっても、やっぱり受け付けないと感じて早々に記事を閉じてしまうことはこれまでにもあった。

個性を持つ一人の人間である以上、噛み合わないと感じる人は私にもいる。


ふわふわしすぎて頭に入ってこない文章。

専門用語とか堅苦しい言葉ばかりが並んでいる文章。

読んでいるだけで「無理」と思う文章。

SNS上での馴れ合いとか表面上だけの褒め合いが見えてしまうと、それだけで関心が薄れてしまうこともある。


受け付けないと感じるタイミングはそれぞれだ。


この界隈ではなにかと話題に上がったり、よく記事が引用されているような人であっても、無理だなと感じる人は何人かいる。誰とは言わないけど、ライブ配信での偉そうな話し方を耳にして、「あぁ、この人無理だ」と感じた人もいる。

詳しい情報を話してもいないのに「それは〇〇だからですよ」と知ったような口調で話してきたのを聞いて、「はあ? たいして知りもしないのになにがわかるんだよ」とムカッときたので、配信の空気を乱さない範囲で反論したこともある。

すると、インフルエンサーに口答えするなとばかりに止めに入ってきた共演者がいて、「あぁ、醜い世界だな」と、私の瞳から熱が引いていくのを感じた。

「そんなに数字に擦り寄りたいですか。数字のご利益に与りたいのですか。そうですか。」と、その止めに入ってきた共演者への熱も一気に冷めた。そして私はすぐさまライブ配信を閉じた。その配信に出ていた人たちのフォローもすべて外した。ファンがアンチに変わった瞬間である。アンチになったといっても、もう私から見に行くことはないので、ただの無関心になったといったほうが正しいだろうか。


夢が醒める時も、信頼が崩れる時も一瞬だ。


その人たちが本当にそのインフルエンサーとの会話のなかで居心地の良さを感じていたかどうかは、本人たちではないのでわからない。ごまをすっていただけかもしれないし、逆に本当に楽しんでいた可能性もあるけど、少なくとも、私が居心地が良いと感じる世界ではなかった。


文章に惹かれても、いざ話してみたら「あれ? 思ったより噛み合わない . . . 」と強い違和感が先に来る人もいる。逆に、文章がひと際目立つわけではなくても、話してみたらものすごく噛み合う人もいる。「脱いだらすごいんです」ならぬ「話したらすごいんです」タイプもいるのだ。

『文章力=人柄の良さ』ではないし、『(いいね、フォロワーなどの)数字=人格者指数』でもないのだ。

フォロワーが多くても先ほどの例に挙げたように、なぜここまでもてはやされているのかわからないと理解に苦しむ人もいるし、フォロワーが目立って多いわけではない人でも人格者だなと感じる人はたくさんいる。



有名な人であろうと。

スキがたくさんついていようと。

『〇〇賞受賞』と書かれていようと。

肩書きや会社名が前面に出されていようと。

編集部のおすすめに掲載されていようと。

SNSでやたらとシェアされているような記事であろうと。


受け付けないものは受け付けない。


数字とか権威性を前面に出されると、全員が好きにならなければいけないかのような圧力を感じることがある。「共感できないのであればお前はおかしい。異質だ。」という圧力を。


でも、「受け付けないものは受け付けない」でいいのだ。


受け付けるものであれば、違和感なくスッと頭に入ってくるか、必要な情報が向こうから来てくれる。

多数派に馴染めないからといって、悪く思う必要はない。


「同じ知り合いの〇〇さんとは仲良くしてるみたいだけど、私はどうしてもこの人とは合わない . . . 」と思うことも時にはあるけど、共通の知り合いがいるからといって合うとは限らないし、合わなくていいのだ。

〇〇さんが凹(おう)で、自分とその合わないと感じる相手が凸(とつ)だったのであれば、〇〇さんとは噛み合っても、その相手とは噛み合わなくなる。その相手も〇〇さんとは噛み合うけど、こちらとは噛み合わずに、むしろぶつかり合う。ただそれだけのことだ。


すべての人と仲良くならなければいけないような錯覚に襲われることがあるけど、『友達100人できるかな』なんて幻想だ。

「相手を変えることはできないから自分から変わりなさい」という考えも一理ある。でも自分なりに見てみたり、読んでみたり、触れてみたり、食べてみたり、努力した上で「やっぱり脳が受け付けない」「試してみたけどやっぱりダメだった」と体が拒絶するのであれば、無理に合わせようとする必要はない。


私たちの持つパズルのピースはそれぞれ形が違うから、合わない形があってもいいのだ。


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