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「今日書き切るはずだったのに」


あぁ、こうしてまた下書きという、未完成な私の分身が増えていくのか。


noteやブログを続けていると、書きたいと思っていた内容が書き切れなくて、未来の自分に託す瞬間が多くある。


未来の自分に託す。つまり、下書き保存をして寝かせるということだ。


1000文字、2000文字と書き進めていっているのに、「なんか違うな . . . 」と思う時もあれば、200~300文字ぐらいしか書けずに手が止まって進まなくなる時もある。


4000~5000文字以上の長編となると、よほど熱量がない限りはなかなか1日では書き切れない。


推敲のための時間も置きたいけど、毎日更新を続けている手前、その日に書き始めたのであれば、その日に書き終わるつもりで書いていく必要がある。

一旦寝かせてから見直すといろいろと綻びが見えてくるように、毎日更新を維持しながら腰を据えて推敲をするには下書きに加えざるを得なくなる。


かといって、次の日はまた次の日で投稿する記事を考える必要がある。それに追われていくうちにどんどん言葉の鮮度が失われていく。


「情報は鮮度が命」

「言葉の賞味期限が過ぎないうちに世に出してあげてください」

「下書きは残さないようにしている」


どこかで見たことがあるような、聞いたことがあるような言葉が催促をするように、音もなく頭の中で響き渡る。


そう、そうしたいのは山々なんだ . . . 

かといって、自分なりに納得がいかないまま未完成の状態で出すわけにもいかない。話は伝わらなければ意味がない。


「起承転結を意識しろ」

「推敲しろ」


耳にタコができるほど聞いた言葉。

目がショボショボするほど見た言葉。

それを踏まえて考えるなら、起承転結の4つのピースが揃っていない状態だ。


ある時は起と結しか書けていない。冒頭と終わりしか書けていないのに、どうやって話の内容を伝えるというのか。


またある時は、起承まで書けたけど、どのような転にして、結まで持っていくか悩む。

映画を観ていて、登場人物が物語に深く絡んできて、「おぉ、盛り上がってきた。」というところで、いきなりスタッフロールが始まってしまうようなものだ。これでは観ている人が納得しない。「大変だ!〇〇が来たぞ!」と言われた途端エンディングではなにが大変なのかわからない。別の意味で大変だ。


今日で言うなら、あるお題に関連した話を書き進めていって、だいたいの話の流れは出来上がったものの、納得のいく濃さに出来ていない。肉付けと推敲。これができなければ、毎日更新のノルマの犠牲になって終わる。そのまま流れていくのがオチだ。


といっても、1日はいつも等しく24時間。その全てを文章に使えるわけではないし、限りがある。


毎日更新の継続と質の狭間でもがく。

起承転結 . . . 肉付け . . . 話の整理 . . . 音読 . . . 推敲 . . . 


起と承で十分に話が伝わらない . . . 

結とタイトルの結びつきが弱い . . . 

そうだ、転はどうする . . . 


脳内での静かな格闘の末に、疲労が溜まった頭を椅子のヘッドレストに投げかける。


「ダメだ。 . . . 今日中には書き切れそうにない。」


不完全燃焼なモヤモヤした気持ちで【下書き保存】をクリックする。


『下書きを保存しました。続きが楽しみです。』


noteからのひと言が出る。

灰色になった画面を目にすると、「今日中に書き切れなかったか . . . 」と溜息をつく。


あぁ、果たして日の目を見る日は来るのだろうか。今日に、明日に、明後日に置いて行かれて、そのまま忘れ去られてしまうのだろうか。


増えていく下書きは、その時その時の私の内側を記した、私の分身たち。

程度の差はあれども、紛れもなく私が感じた言葉の数々だ。


「言葉の賞味期限が過ぎないうちに世に出してあげてください」


どこかで見た、あるいは聞いた言葉が、下書き保存を押したあとの世界に響いて細く消える。




世に出すことができなかった下書きの数々が脳裏をよぎる。


それは後悔か。無念か。それとも失望か。

それぞれに似た感覚と共に、私は下書きという名の新しい影を加えた。



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