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ダンスはうまく踊れない。

私の勤めるオフィスが入っているビルの地下にはいくつか飲食店が入っている。その中に「S」という串揚げの店があるのだが、ランチタイムに出している週替りの中華惣菜の弁当が口に合い、週に数回は利用していたものだ。
その「S」店も、δが猖獗を極めた盛夏の頃にはお昼の営業も休むようになって、ランチタイムになると何となく寂しい思いをしたものだった。

10月に入り、緊急事態宣言が明けた。

久々に営業を再開した「S」店。
お昼になって、千円札を握りしめて弁当を買いに行く。
その日の週替り弁当は、生姜焼き。私の大好物である。
お店のスタッフの、アジア系の女性が私の弁当の会計をしながら「お久しぶりですね」と微笑む。何だ、覚えててくれたんだ。
「そうだね、久しぶり」としか返事できなかったけど、ちょっと嬉しかった。そして本当に恋しかったんだよ。ここのお昼。それは伝えたかったのだが、気の利いたセリフなぞ、映画のようにすらりと出るわけではなくてね。
その時に、ふと思ったものだ。そうだ、今度はここに夜飲みに来ようって。

* * *

今度あの店に飲みに行こう。
こんなに使い古されているのに、こんなにここ最近口に出していない言葉があったろうか。自分でそう思ったくせにちょっとぎょっとしている自分がいる。何か突飛なことを考えてしまったかのような焦り。どこかに飲みに行く。そのフレーズが、檸檬で陰鬱な丸善をぶっ飛ばそうと考えた梶井基次郎の発想と等価になっている自分が滑稽ですらある。何かが壊れているのには違いないが、それもこれもあの忌々しいウイルスのせいに違いない。

弁当をオフィスの自席で広げた。
久しぶりの生姜焼きは、値千金の旨さだった。

例の流行り病も、日々報道される新規感染者数も気づけばだいぶ少なくなっていて、それは昨年5月の連休明けを思わせる数値になっている。東京都が特設サイトで公表している感染状況も、おそらくシグナル・グリーンを表示したのは始めたのことだ。私自身も予防接種はフルで済ませているし、そろそろいいんじゃないだろうか。夜の街に出ても。

過日、そんな思いで就業後帰宅するために乗る路線とは別の、久しぶりに乗る地下鉄路線に乗り、なじみの居酒屋に向かった。オフィスの最寄り駅から数駅。その馴染みの店は、2020年以前と同じように都会の喧騒の中の、ビルの一角にひっそりと蹲っていた。ドアを開けると、マスターの「いらっしゃい」の声が響く。久しぶりを通り越して、懐かしい。

「まずは、生をね」

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生ビール。このクリーミーな泡。喉を駆け下りていく麦とホップの旨味。清涼感。これだけが、自宅飲みでは味わえないものだった。

ぷはあ、と一息ついてから、マスターからいろいろと近況を伺う。
マスターとの会話の通奏低音としてあるのは、とにかく、お互いいろんな意味で「ようもご無事で」ということには違いない。

小上がりのスペースでは、すでに3組のお客さんが、小グループながら宴会をしていて、マスクなしにがんがんに喋っている。どうなんだろ。普段から顔を合わせている職場の仲間なのかな。予防接種もフルなのかな。そうであって欲しいと思いつつ、小上がりからはかなり距離も離れていることだから大丈夫かな。そんな計算をしながら呑む、というのはどうなのか。
私の頭の中のどこかに「おっかなびっくり」という感情があるのも事実なのだ。

ビビりすぎと嗤う人もいるだろう。
それはそうかもしれない。だが、私は医療の実際を知らない素人であるけれど、これだけ流行していてかつあんなに予後がいやらしい感染症というのは、ちょっと他にないのではないかなあ。死ななければ大丈夫ということではなくて、ブレインフォグにしても、強烈な異物感を伴うとされる味覚の喪失にしても。あるいは様々な臓器へのダメージも含めて。後遺症はいつかは治る可能性があるにしても、私のような馬鹿舌のくせにウイスキーが趣味の、「知恵出し」が求められる事務屋家業の、かつBMI高めの基礎疾患持ちのおっさんにしてみれば、スコッチとバーボンの味の差がわからなくなり、「頭の体操」も出来なくなれば、それは私にとっては「社会的な死」に等しい。QOLってのは本当に大事なはずで。

経済を回すことは大事。これは間違いないことではあるんだけど、その担い手が本当に自分で良いのだろうか。いや、確かにそれは誰かがやればやらなくてはいけないことなのだが。愛するお店を応援したい気持ちと、それを突発的使命感でやっていいのかという気持ちと。蛮勇を奮っても、所詮は蟷螂の斧には違いないのだ。しかし蟷螂の斧が積み重なればそれもひとつの大きなパワーであることには違いなくて。非力は無力ではない、と言ってたのは自分ではないのか。いろんな思いが綯い交ぜになる。

はっきり言おう。久しぶりの外呑み。意義はあったが、リラックス出来なかった。正直、呑んでてちょっとしんどい。

何だろう。私は以前の生活を取り戻したかったのではないのか。
その思いは変わっていない。これからの生活が2019年からの続きであって欲しい。そう思っていたはずなのだが。
例の流行り病への防衛ラインが、自分と著しく異なる人と同じ空間、同じ時間を過ごすことがこんなに精神的な重圧になるとは思いもしなかった。まだ早かったのかもしれない。ナイーブに過ぎると言えばそうなのだろう。きっと自分自身、今までの異常事態に過剰適応してしまったのかもしれない。

3杯目の生ビールは、記憶している生ビールの味よりも数段甘美で、数段ほろ苦かった。

もうはまだなり、まだはもうなり。
使い古された株式格言ではあるのだけど、こういう感覚って、おそらく例の流行り病の状況を見ながら経済を回す、生活をどこまで普段どおりにするかという上で鍵になると個人的には思っていて。思っていたんだけどね。

行政の判断というのは無謬性がどうしても求められる以上、肌感覚で動く訳にはいかない。でも個人レベルではどうか。明日雨が降るのか、そうならば長い傘を盛っていくべきか、あるいは折りたたみをバッグに忍ばせるのか。あるいはすっぱり傘を持っていかないか。天気予報を見て、そんな判断は毎日のようにしているはずなのにね。
だから、自分もいつものお店に飲みに行くなら今だと思ったわけで。

やるなら今しかねえ(by田中邦衛)。

最近はあまり聞かなくなったけど、所謂「ハンマー&ダンス」戦略。

それなら、間違いなく今はダンスの期間。
もっと思い切り、というかもう少し器用に踊れると思ってたんだけどね。

けれど。
ダンスはうまく踊れない。

少なくとも、今の自分にはね。何でだろ。こんなはずじゃなかったはずなのに。それはおそらく「データ<生活習慣」ってところもあるのかもしれない。一度行動変容が起きてしまうと、それを元に戻すのも新たな行動変容なのだから、やはり一定の時間とエネルギーが必要になるのかもしれない。
もうはまだなり、まだはもうなり、か。
簡単に実践できないからこそ、格言として生きているんだろうな。

トンネルの出口まで、後少し。

「やるなら今しかねえ」
「いえ、明日でも大丈夫です。なんなら明後日でも」

そんな日が早くきますように。
いや、そう感じられるようにアップを始めないといけないのかもしれなくて。ずっと正座をしていたら、ぱっと立ち上がることは難しいわけでね。でも、またすぐに正座をしなくてはいけない時期もすぐ来るかも知れなくて。

そんなことを考えながら、約一年ぶりにほろ酔いで地下鉄に乗り、家路を急いだ。ふう。

(もやもやしながら、了)

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