見出し画像

立ち枯れた紫陽花

近所の本屋で寺山修司の本を買った。
本当はナウシカの原作漫画が欲しかったけど、売ってなかったから村上春樹の一人称単数を買おうと思った。でもそれも売ってなかった。村上春樹の文庫が並ぶコーナーをふたつ回ったが、売ってなかった。売ってなかった。買いたいのに売ってなかった。売ってなかった。売ってなかった。

仕方なく棚の間をぶらぶらして、久しぶりにファッション雑誌の棚の前に行き、そこにガラスペンのハウツー本と、付録がメインになってる雑誌というより箱が売ってるばかりの状況を見て、書店に絶望した。じっさい絶望してるのは店主だろうが。そこはこの地域でいちばん大きな書店で、前のオーナーは数年前に自殺していた。

人間の精神性は少なくとも寺山修司が生きて文章を書いていたころとそんな変わってないだろうに、しゃかいの仕組みがこんなにも短いあいだに激変してしまったのは、いったいなぜなのだろう。わたしたちは、いやわたしは、きっと何か良いことがあるに違いないと、新しい技術に手を出して、拡張して、拡散して、がんばってるのに、それはもしかしたら崖のへりに向かって突き進んでいるのかもしれない。

寺山修司少女詩集より引用
角川文庫

そうです 海では飛べません
それなのに 海で飛ぼうとして
びしょぬれになっている悲しい鳥

本屋の帰りに公園に寄った。
梅の花の咲き具合を見るために。
梅の花の蕾は膨らんで色づいていたがまだ固かった。花が咲いたら目立たない小枝を盗んで、ボタンの背景にしようと思っている。

梅の木の後ろには昔、三本の大きな桜の木があった。桜が散る頃には、少し離れた小道まで花びらでいっぱいになって、わたしは道のすみにたまった桜の花びらをかき集めて、わあっと撒くのが好きだった。飼い犬のヨークシャテリアに花びらをかけたら、嬉しそうだったけど大きな黒い目玉に花びらがくっついて、わたしは慌てながらそうっととりのぞいた。

犬はもういないし、三本あった桜の木は一本だけになってしまった。

昔あって今はないもののことを考えてると、ふと枯れた低木が目に入った。薄茶色の木の先にかさかさした茶色いものがついていた。よく見てみると白っぽいものも混じっていた。もっとよく見てみるとそれは可憐な四枚の花びらをもつ花だった。殆どは茶色く枯れてしなびていたが、中には瑞々しかったころの花からそのまま水分だけ抜いたような綺麗な白い花もあった。リネンのブラウスの装飾のような、西欧の雰囲気をまとっていた。

たぶん、アナベルという品種だったと思う。夏を終えて、秋をむかえ、冬の寒さや霜や雪や北風の中で、自然に枯れてなお美しい花。わたしは買えなかった本のことを忘れた。そのときだけは。

家に帰って私は寺山修司の本を見つめる。寺山修司に罪はない。断罪されるべきはその表示。ゼロ年代のノンノの浴衣特集にありそうな感じの写真が気に食わない。モデルも悪くない。たぶん写真家も悪くない。背景の川や木々に文句を言うつもりはない。この本の企画を考えた人もきっと善人だ。デザイナーだって自分の仕事を全うしただけだと思う。

けれどこの薄っぺらさはいったいどこから来るのだろう。紫陽花の花の風合いが、一欠片でもこの本の見た目に入っていたらきっと違ったような気がする。

寺山修司少女詩集
角川文庫

まあ、きれい!
とマドレーヌは口紅を手にとりました
でも、ぼくはもう、この物語のつづきを書くことは
できないのです。それは、とても残酷なはなしです。
何しろ、この口紅は
「ふしあわせという名の口紅」だったのですから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?