短編小説『夢に出てきたあの人は、私のことを好きにならない』

 私は彼をユウムと名付けた。
 彼は私の好きな男性に姿を変え、3ヵ月に一度くらい、私の夢の中へ訪れる。時間も空間も超えた、ふたりきりの世界の別れ際、彼は決まって私の頬にキスをする。キスは頬から全身を温め、じんわりと幸福に満たしてくれた。ふっと近づいた彼は、いつも甘い香りがする。
 目が覚めると、夢見心地で私は微笑み、そして少し泣く。現実に戻ると、彼が姿を変えた男性とは決して結ばれない。大抵、相手に恋人がいることが判明したり、ふられてしまう。予知のように現実を知ることもあれば、ふられた後、悲しみに寄り添うみたいに「彼」が現れることもあった。
 絶望的な夢なのに、彼の存在は私の救いでもある。彼のキスはあまりに優しいので、夢と知ったときのやるせなさも、現実で受け止めなくてはならないやるせなさでさえも許してしまう。ユウムとして現れることによって、その人との一生分の幸せを感じることができた。そう思うと、どんよりとした悲しみの中に、キラキラとした幸せが溶け込み、なにもかも許せてしまえるのだった。

 恋の中で成長したといってもいい程の恋多き成長期に、一度も恋人がいなかったわけではない。ユウムが相手に姿を変えなければよかった。なので、17歳の秋に高校の先輩を好きになり、いつまでもユウムがその人になって現れなかったので、思い切って告白をして、付き合ったこともある。そのようにユウムに背中を押されることもあった。
 しかし、ユウムといるといつもスリリングで、ロマンティックで、楽しいのに、現実は退屈で、つまらないすれ違いばかりで、苦しかった。もうずっと眠って過ごせればいいのにと思い始めた頃、2年間付き合っていた先輩と別れた。その後も先輩は、ユウムとなって現れることはない。彼が言った最後の言葉が、今でも私を傷つける。「君は恋に恋している」と。
 以来、恋人と呼べるような人はいなかった。

 部屋を暗くして、目を閉じると、意識がだんだん落ちてゆく。妙な浮遊感に酔いながら暗闇を漂っていると、突然、地に足が着き、目の前に現れたのは初恋の人、幼稚園の先生をしていたアキラお兄さんだった。そこは大きな公園の遊具にあるようなプラスチックのトンネルの中で、ふたりでまっすぐ立っていた。身長ギリギリの高さの空洞がカーブを描きながら続いている。幼稚園から成長した私は、あの頃からひとつも変わっていないお兄さんと、手をつなぎ、ずっと昔からの恋人であるかのようにゆったりと歩いて行く。乾いた足音の反響と手の温もりがリアルで、小さな冒険者になったようにドキドキとしていた。
 トンネルを抜けると、美術館のように明るくてまっしろでひんやりとしている部屋や、大きなパーツや小さなパーツで作られたレゴブロックの部屋や、虹のとろけたしゃぼん玉の檻と、そこに入った色とりどりの蝶々が舞っている部屋など、ひとつ曲がるだけで新しい世界が続いている。それらに見とれながらも、ふとしたタイミングにお互いに目を合わす。彼は嬉しさでいっぱいで、彼はふわっと笑っていた。
 透明な壁の部屋に入ったとき、ふと彼の手が離れていることに気づいた。振り返ると、透けるように光っている彼が、寂しそうに、愛おしそうに、私を見つめている。今までトンネルの外について考えもしなかったが、そこは深い闇で、幾重にも重なった透明の向こうに、暗闇が広がっている。おそるおそる足を踏み出し壁をつたう。彼の元へ辿りつき、ぎゅっと抱き着くと、とても安心した。
「もう離さないで。」
 言わなくても、身体の温もりを通して彼に届いた気がした。
 顔を上げると、彼の目が近くにあり、それがどんどん近づいてくる。彼の姿が視界の中心へ消えたとき、頬にしっとりと温かさが宿った。鼻をかすめる甘い香り。別れの予感に目を閉じることはできない。
 それなのに、そこはもう私の部屋だった。アラームの音が彼との間を引き裂いたけれど頬には彼の感触が生々しく残っている。もうアキラお兄さんは私と結ばれることはない。

 そんなこととっくに知っている。だってあの人は私が卒園してからすぐに、結婚をしてしまったのだから。

 身体を動かすのも億劫な朝。もう一度眠れば、また夢の続きがみられそうなのに、みられたことはない。それだったら、眠らずに、余韻にひたっていたかった。学校なんか行かず、そうしていたかった。

「ユウム。ゆうむ。ゆーむ。」
 ちょっと誰かに傍にいてほしい。理由なんて聞かずに、ただ、寄り添ってほしい。そんなふうに思うときは、本当は、誰とも一緒にいたくないときなんだと、私は知っている。楽しくお喋りをしたいわけでも、愚痴を言いたいわけでも、悩みを聞いて欲しいわけでもないから。声には出さずにそっとユウムを呼ぶ。

 家のドアを開けると、道路は薔薇の海だった。掌ほどの大きさの薔薇が道いっぱいに積もっている。赤、ピンク、白、ごくたまに淡い黄色は、ひとつも花びらがはがれずにくっついていて、それでいて無造作に落ちている。ピンクのスーツを着た女の人は、高いヒールでそれを踏みながら私の前を横切った。踏まれた薔薇はぐしゃりと潰れ、ツンとしてむせそうな香りがする。私は薔薇を踏まないように、そっとつま先でよけながら、ゆっくり歩いた。
 いつもの倍の時間をかけて大学に着くと、薔薇を踏んだ道ができていた。みんなそこを歩いている。私は潰れた薔薇も踏まないように、つま先で固いコンクリートを探す。
「なんで、そんなふうに歩いているの。」
 後ろから男の人の声がして、振り返ると、オオシマくんが立っていた。彼は水曜日の授業が一緒で、授業が終わると最後まで教室に残り先生と講義の内容について話している熱心な生徒だった。オオシマくんは話上手で、私はとろとろとノートやペンを鞄に片付けながら、それを聞くのが好きだった。まだ話したことは一度もないから彼はきっと私の名前すら知らないと思っていた。そのオオシマくんが、私の目の前に立っている。

「どうしてそんなに恐る恐る歩いているの。」
「薔薇を、踏みたくないから。」
「なら、踏まなければいいじゃないか。」
 当たり前のように言う彼に、私は戸惑って下を向く。すると、驚いたことに、彼のつま先は、薔薇の上に浮いていた。まるで、ガラスの床でもあるように、しっかりと彼は立っている。どうりで、彼の周りの薔薇は踏まれていないわけだ。
「大丈夫。薔薇を踏まなくても、まっすぐ歩ける。手を貸すから、ここまで来てみて。」
 躊躇う私をよそに、彼は一歩後ろに下がり、少し手を差し伸べる。動けない私は泣き出しそうなのをこらえて、彼を見つめる。彼は、急かすわけでもなく、ただ、私が来るのを待っていた。
 意を決して、手を伸ばし、右足を出す。すると、つま先は薔薇の上で、コツンと音をたてて止まった。右手で、彼の手を握り、左足も、そこに乗せる。すると、世界が、少しだけ高くなり、薔薇の上に立っていた。不思議な感覚にめまいを起こしそうになりながら、彼の手を強く握った。
「怖くないだろ。」
 彼は、太陽の強い日差しの下で、涼しそうに笑い、手をひいて歩く。校舎に入るのかと思いきや、学校を通り抜け、誰もいない公園まで歩いてきた。ベンチしかない公園はお昼の時間帯は心地良い木陰になるので、ときどきそこでお昼を食べたりしている。そこの薔薇は、ひとつも踏まれておらず散らばっていた。
「ね、ここの薔薇の花、ひっくり返っているのもあるから、ひとつひとつ、上に向けることってできないかな。」
「できると思うよ。僕はあっちの端からやるから、君はこっちの端からやればいい。」
 地面にしゃがんでも、ガラスは消えず、それでいて手で触れようとすると、空を切り、薔薇をひっくり返すことができる。私は夢中になって、ひとつひとつ、薔薇を並べていった。
 並べ終わると、そこはどんなガーデナーが奮闘しても、かなわないくらいに見事な薔薇園になっていた。私と彼はベンチに座り、それを眺める。
「オオシマくん、私、水曜日にオオシマくんと同じ授業で、」
 けれども、彼はそれを遮った。そして、私の髪を撫でる。すると、私も、そんなことはどうでもいいことだと気づいた。彼の指は、ゆっくりと私の頭から、髪の先まで滑り、頬をなぞった。私は彼の指に手を重ねて、それを拒む。頬に触れて欲しくはなかった。終わりなんて、必要なかった。すると彼の指はまた頭へともどり、同じ道筋をたどる。そして、何回か繰り返すと、さっと顔を近づけ、指で触れた反対の頬にキスをした。
 
 もう成人したのに、ときどき、今まで生きてきた中で、積み上げてきたものも、増えていくはずの荷物も、なんにもないんじゃないかと思うときがある。時間はどんどん過ぎているのに、一歩も進んでいないような、宝物を握っていたのに、手を開くと何も持っていなかったような、そんな気分になる。
 そんなときに、友達に会うと、みんながキラキラして見えて、ますます自分が小さくなるようだった。私だって頑張っているのに、みんなは、もっと、頑張っている。怖くなってユウムを呼ぶ。顔を思い浮かべようとすると、それはオオシマくんの顔で、とても悲しくなった。
 オオシマくんの夢を見てしまったからじゃない。
 慰められて、肯定してもらうためだけにオオシマくんを好きになったみたいで、そんな都合のいいユウムになってしまったオオシマくんだから好きになったみたいで、自分が信じられなくなって、悲しかった。それでも、またユウムの名を呼ぶ。

 そこは青い空だった。私は大の字に寝転がり、右の傍から、左の傍まで、ぐるっと見回した。入道雲が流れる大きな空を見上げながら、何故か、トランポリンの上にいた。どこまでも続く、空と芝生の間に挟まれ、私は空を見つめていた。斜めから差し込む太陽の光が眩しくて、右手で目を覆う。
 すると、太鼓に触れたときのように細かな震動が起こった。手をついて頭を上げると、前に勤めてた本屋のバイト先の店長が、同じように、空を見ていた。
「店長。」
 私が呼ぶと、首を横に傾けて、こっちを見る。私は、手をついている所が重みで傾いていることに気づいて、寝転がりながら、首だけ、店長の方へ向けた。
「ご無沙汰していました。お元気でしたか。」
 店長は短く「ああ。」とだけ言って、また空を見てしまう。私は、さっき感じた太鼓みたいな震動を起こしたくて、右手の指先でそっと二回、張りつめた、かたい布を叩いた。細かな震動が、全体に響く。すると、店長の左手が、答えるように、動いた。

トントン   トトトン   トトン   トトン

 リズム良く叩けば叩く程、トランポリンはゆらりとやわらかくなり、ついに、身体が沈んだと思うと、指先で触れたのは、ザラザラとした砂だった。

 息を吸い込むと、青々とした芝生の代わりに、潮のにおいがする。いつから聞こえていたのだろうか。おだやかな波の音まで聞こえてくる。起き上がると、水色で透明な海が、遠く、遠く、青と溶け合っていた。
 店長も、私の隣に座り、空を見つめた瞳で海を見ている。浜辺はゆるやかな傾斜で、白く泡立った波が、砂の上を気持ちよさそうに滑っている。陽の光を反射し、輝く海は、まさしく夏の海だった。
「ここはハルキの海ですね。」
 私は自然に言葉が出た。店長は、ハルキの小説が好きで、そして、その話をするときの店長の顔は、小説の中の「僕」みたいだった。
「うん。ハルキの海だと思う。」
 店長が、そう言ったとき、ストンと何かが、私の心に落ちてきた。今までにはないことが、私の中に起こった。
「たぶん、現実の店長は、そんなこと言わないと思う。もしかしたら、言うかもしれないけど、私が、店長から、その言葉を聞くことはないと思う。私、この静かな所で、ようやく立ち止まることができた。店長は店長じゃないんですね。」
 小さく「うん」と答えたのは、私の理想の中の店長。店長をよく知らない私が作った人。
 身体が動かない。きっと、顔を向けたところで、そこには、店長の姿、店長の声があるだけだろう。

 私が名付けたユウム。
 彼は私の子供だった。そして私は小さな子供だった。
 そのままずっと、ふたりで海の彼方を見つめていた。

【完】

大学時代に書いた作品です。

当時もそう思っていたのかもしれませんが、今読んでも、すごく詩的だと思います。

これをもう少しわかりやすく、戯曲にしたりしていましたが、どんなに違う形態にしても、当時の先生は「この作品が1番好き」と言ってくれていたので、載せました。

「読み返して直したい場所が見つかったら、それは作品の欠点ではなく、あなたの成長だ」と大学の別の先生は言っていました。

これはあくまで母体として、もう少しスッキリさせたり、わかりやすくさせようかなと思います。学生時代の自分を少し俯瞰して見られそうです。

スキが多かったら、これはこれでとっておいて、別のバージョンを書こうかな。

楽しんでもらえたなら、嬉しいです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 読みごたえがあったと思います。ひと休みしてくださいませ。 もし余力がありましたら「スキ」やフォローをお願いします。