noteで初めてサポートをうけた
毎日更新するとか言いつつ、なんやかんや早速2日空いてしまった。
そんな矢先、初めて記事に対してサポートを受けた。つまり投げ銭をもらった。
通知をみたとき、「…サポートってなんだっけ」と正直忘れていたくらい、ピンとこなかった。というのも、自分には関係のない機能だと思っていたから。いや、もちろんサポートを受けられる設定にしている時点でバリバリ狙って入るけれど、そんな誰かに対して有益な情報や誰かを癒すような素敵なエッセイも到底書ける気もしていなかった。
だから、本当にびっくりしたし、「…どの記事に!?どれくらいの!?」という恥ずかしいくらいのジリ貧根性(本当にその日暮らしのためぜんぜんお金がない、寄席に行くお金すらない、肉を買いたい)で必死にスマホで確認しようとしたんだけど、どうやらアプリじゃ確認できないらしく。そのときすぐにPCを開けるタイミングじゃなかったから、ずっと悶々としながら「…本当にサポートがついたんだろうか、いや、通知きたものの、ウン、取り消されているかもしれないし…」と予防線を引きまくった。傷つきたくないのだ、誰しも。誰しも、きっとそうだろう。平和がいちばんだ。
そしてさっき、本当にこの記事を書き始める前に、おそるおそるPCからサポートを確認してみた。ただ、自分のアイコンをクリックして設定を探してみても、どこで確認できるのかわからない。「ハハーーン、やっぱり幻かいな!オイオイ!」とおちゃらける自分と、「いやいや、そんなはずないからちゃんと探せ、ちゃんとガイドライン読めよ」と律する自分の狭間。
揺れ動きながらもう少し探すため、ベルマークの通知欄をさかのぼってみると、そこに「サポートをうけました!」という通知の文字が。それが本当だと証明された瞬間だった。
初サポートをしてくれた方について、どなたかピンと来てないが、どの記事を読んでその判断をしてくれたかはこちらも分かる。それは、この記事の一つ手前の、「おもしろい街」という記事だった。(https://note.mu/nanako0107/n/n3ab1e039738c)
人に何が刺さるのかは、ぜんぜんわからない。お涙を頂戴しようと書いてみた記事が以外とだーーれにも響かないなんていうのはザラだし、逆に自分の個人的なことを書いた方が、人から共感を得られることも多々有る。そこを狙って文章を書ける人ももちろんいらっしゃるけれど、自分にはそのスキルがなかなか身につかない。ちょっとずつ分かってきている気もするが、それがうまく利くときの方が圧倒的に少ない。
私の文章の書き方はとても原始的で、自分が実体験としてみたもの・聞いたもの・解釈したものの延長線上でしか筆が乗らない。徒然草的な書き方だ。清少納言のような文学に昇華させる力はないけれど。
正直、編集者をしていたけれど、編集者としての能力はものすごく低い。物事を俯瞰したいとき、その対象物に少しでも思い入れや体験が混ざっていないと、そのままどんどん高度を上げてしまい、俯瞰どころかまったくその輪郭すらぼやぼやしてしまうぐらいの見え方になってしまうから。優秀な編集者は、俯瞰しながら、かつ、それを整理する力がある。
けれどできればいろんな人に読んでもらって、あわよくばサポートを受けて、どうにかそのお金でお肉を買ったり寄席に行ったりしたい、という気持ちがある。大したことではないのだけれど、この文章がお肉や寄席代と交換できるという自信が欲しい。あと純粋にお肉が食べたいし寄席に行きたい。
そんなことを考えながら、けれど大した努力もせず、私は今日もnoteを更新している。人に読まれる文章が書けない自分には、愚直に日々のことを書き続けるしかないのだ。けれど、それが誰に響くかもわからないし、もしかして同じ気持ちの人がいてくれたらいいなあとも思う。私のnoteには宛先がない手紙のようで、たぶん半分は自分宛に、あとはもしかしてまだ出会ってない同じ気持ちの誰かに宛てているような気もしている。
インターネットの大海はどうにも年々大きくなっているし、そこに浮くわたしの船(もしくはサーフボード)はめちゃくちゃちゃっちくて小さなものだけれど、それでも漂ってさえいればもしかしたら誰かと出会えるかもしれない、誰かに届くかもしれないというのは、なんとも夢があるなあと思う。
けれど、本当に届けたいんだったら、もっと戦略的にもっと真面目に届ける努力をしなくちゃいけない。その覚悟がなかなか決まらないわたしのままじゃ、やっぱり明日もお肉を食べたいなあとか寄席に行きたいなあとかそういう願望ばかり眺めているだけなんだろう。お肉食べたいなあ。
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