見出し画像

日々を暮らすための想像力

わたしにはとても苦手なことがある。そして、その苦手はずっっと、小さいころから変わらない。
それは何かというと、集団の圧力、どうでもいいことの強制、理不尽な怒り、ヘラヘラした差別。

そりゃ誰しも苦手なことなのだけれど、みんな大人になっていくにつれ、それをスルーしたり、耐性がついたり、無視したり、逃し方を学んでいく。

わたしはどうも、それを会得せずに逃げることばかり覚えてしまって、ズルズルと大人になってしまった。"しまった"というと、それを会得しないとダメなようだけど、そういうわけじゃない。
けれど、それを会得しないと、この世はどうも生きにくいのも事実だ。

だって、それを会得しないと、自分のこころを守れない。傷ついて傷ついて、傷ついた先に、壊れてしまうのは自分だから。

人のこころは、一度壊れるとそう容易には同じ形に戻らない。ガラスのハートとはよく言ったもので、本当にガラスみたいにできているんだと思う。
だからこそ、ステキな言葉や音楽や景色や美術作品や赤ちゃんや動物や朝日や夕日に心が震えるのだろう。そういった小さな振動でさえ、ガラスは全身を震わせる。

けど一方で、小さな振動ですら拾ってしまうからこそ、案外脆いのだ。そういうことを分かっているから、人はその振動が伝わらないよう、力の逃し方を学ぶんだろう。

けど、本当はそういうことって、こちらが我慢して、必死で避けるものではなくて、そもそも必要のないもののはず。その振動を、そもそも生まないようにすればいいもののはず。

じゃあ、そうするにはどうすべきか。答えは本当にシンプルで、想像力を持つことだと思う。それは相手への想像力でもあり、自分への想像力でもある。 その人がどんな人なのか、どんな言葉に傷つき、癒されるのか。自分がどんな人間なのか、どんな言葉で淀み、清くいられるのか。
そういう想像力は、直感的にも思えるけれど、社会や世界の背景と結びつけて頭に落とし込んで置く必要がある。

そして、そういう想像力を養えるのが芸術だろうとも思う。

映画を通して自分が立ったこともない境遇を疑似体験し、
音楽を通して自分の気持ちを引き出され、
文学を通しその気持ちを言葉で染み込ませ、
美術作品によって理解しきれない何かに向き合う。

芸術文化の有用性なんて言葉はなんとも野暮ったくヘドが出そうにもなるけれど、人が芸術を手放してはならない理由の一つに、きっとこういうことがあると思う。

かくいうわたしも心がどうも壊れやすい。粉々になるたび破片を拾っては元の形へ戻してきたけれど、なんどもなんども繰り返して行くうちに、小さな破片からどんどん見つけるのが難しくなって、スカスカの、原型からどんどんかけ離れたいびつな形になっていく。

そして、そんなときにこころの型どりを手伝ってくれるのもまた、芸術だ。芸術という言葉をどこまでの範囲とするか、そんな議論もあるかもしれないけれど。
いま、意思を持って、社会に対してものづくりでアプローチしていること、と言えばもう少し具体的だろうか。

自分の破片をその作品がつなぎとめ、足りなくなった部分を補填し、失ったものを知らせ、金継ぎのように美しく、けれどどこか寂しく、継ぎ目を作ってくれる。(この部分は、もう少し、ふわっとしない言い方が思いついたら書き直そう)

だから、そういうものを作れる人を尊敬するし、自分もその一端を担いたい。そして、それをしようとする人たちや私が責任を持てば、どんなことでもできる社会であらねばならいとも思う。

自由にものがつくれなくなり、想像力が乏しくなり、誰もが傷つけあってしまうような社会に、いま少しずつ近付いている気がする。
芸術を守るために、想像力を失わないために、人が傷つけあわないために、何ができるか。ここで、瀬戸際の想像力を持てるかどうか、私たちは試されている。

https://t.co/v8B9oX5bSv

#コラム #イラスト #日記 #あいちトリエンナーレ #表現の不自由展


いただいたサポートは文化・娯楽へすべて注ぎ込みます