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前を向いて、顔を上げて歩くための「勘違い」は創れる。

視線を向けられると、こっち見ないで! 
注目しないで! もうひとりのわたしが叫ぶ。
いつからそんなふうになっちゃったんだろう。

答えは見えている。中学二年から始まった、いじめー そのものじゃないけど、それに近いことを怖がってるんだ。

わたしという人間を知って「あなたはこんな人」と理解してくれる人もいるだろうけど、
反対に「あ、あなたはその程度の人だったんだね」とみなされることが。

話が饒舌にできないこともそう。
どうして頭の中の言葉をうまく言葉で表現できないの? と責めてしまう自分でさえももういい加減嫌になってきたんだ。

そんな自分を嫌でなくするために、隅っこで縮こまっていると幾分か安心できるけど、その代わりにいろいろなことを失ってきた。


わたしは、今でも本当は怖い。

視線を向けられること。「あなたの考えを聞かせて」となんの準備もなく不意打ちで尋ねられることに免疫がない。

だからー
こうやってひとりでできる言葉遊びで
言語化する時間も好きだし、ひとりだからできることもあるんだなって思う。

でもそればかりじゃダメって感じてしまう。 
今も、ちょっと先も、そのまた先にも。潰していかなきゃいけない課題がたっくさんある。

向き合わなきゃいけないこともわかってる。
でも、だけど。その言葉の狭間でいつも闘う揺れ動く気持ちは、日替わり定食みたいだ。

今日は誰となら話せるだろう。
今日は家族以外、いや、家族でさえもわたしの言葉を「わかんない」のかもしれない。。
全部ダメかもしれない。

でも、大丈夫なんだよ。
そのときのわたしはなぜだかこんなふうに思えるようになっていた。

「言葉にしたから後戻りできない」
「文字だから消しゴムで消してやり直せる」なんてのはわたしの間違った解釈だったんだ。

面倒なときもあるけど、ちゃんと説明したら聞く方にもそれなりにわかって貰えるかもしれない。
そうじゃなかったら、わたし達みたいなコミュ症の人の生き方は閉ざされてしまう。

可哀想、とか思われたくない。
わたしはわたしの生き方を探す。

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