飛騨の地にさそわれて -姫の恋旅路-
今回、旅で岐阜はただの通り道でしたが、
福井のイベントのあとに、私たち家族は、どうしてもまた岐阜に行きたくなって、
山形へ帰るのに、岐阜経由をすることにしました。
そこで、飛騨に向かったんですね。
飛騨というのは、本当にわたしにとっては、特別な場所で。
それは、さかのぼることは、中学生のときに戻ります。
中学三年だった私は、多感な思春期時代をすごしていたのです。
けれど、感覚が鋭敏だったために、いろんなわずらわしいことを感じてしまい、
難しい時期でした。
そんなときに、飛騨という言葉に出会います。ある漫画がきっかけでしたが。
そして、そこで、「飛騨」「両面スクナ」「添い遂げられない悲恋」「女性であること」
いろんないろんな感情の苦しさに締め付けられます。
漫画は、ただのきっかけでした。けれど、当時の私は、
前世のデジャブに悩まされていたんですね。今にして思えば。
けれどもそれをわかることができなかった私は、本当に苦しくて、
飛騨という言葉を聞くだけで、全身に稲妻が走るような、悲恋に苦しく、(付き合っていた人がいるわけではなかったのですが)
そして、女性であることに鋭い劣等感というか、罪悪感を持っていました。
飛騨の文献を調べたり、日本史の資料、古事記、いろいろみたけれど、
どれにも自分の戦慄を治めてくれそうなものは見つからず、
ただ苦しく、この感覚は何なんだ!と思っていました。
そして、日常(目の前の三次元)に支障がでるなと思い、
飛騨への思いや、悲恋に対してのことなどを一旦棚上げにしたのです。
大人になってからゆっくり紐解こうと。
昔、戦国時代に、飛騨に住んでいました。それを前世の記憶として大人になってから、蘇ったのでした。
そのとき、身分やいろんなことが事情となって、添い遂げられなかった悲恋を味わい、
城を業火で焼き尽くされ、自分の心までも、その火は燃やし尽くしてしまったのでした。
愛する人を失う、目の前の業火と、心の業火。
その苦しかった時期があるので、戦国時代は好きになれない私がいた。
そして、今回の旅で、笠置山に登っているときに、ガイドをしてくださった方から、
「両面スクナ」という言葉を聞かされました。
中学とのとき以来、何十年ぶりに聞く、ワード。
滋賀からの旅の中で、どれだけ知っている顔とであったか、
歴史を紐解くような旅だと思っていたけれど、両面スクナと聞いたときに、
中学のときのあの多感な思春期の苦しさの私を思い出しました。
あ~そういうことか。
摘み取り作業かもしれない、と思ったのでした。
ま~思春期の私は、感覚が鋭くなりすぎていて、(元来鋭かったからなお更)
女性であることに嫌気が差していました。
初潮を迎えたときに、自分が女性であることを見せ付けられたように感じて、
大泣きしました。そして自分の性を受け入れられない時期に突入したのです。
それは、4年くらいかかりました。
4年の月日の中で、学校以外では、スカートをはかず、女性である性を
自分から切り離して生きようともがいていました。
しかし、あるとき、本当に、ある時に、ふと
「今回は、女性で生まれたのだから、女性である自分を楽しんで」
という声が。
そのとき、憑き物が落ちたかのように、ほっとしたのです。
今回は、女性なんだから、女性である自分を楽しめば良いのか!って。
そんな鋭敏な子だったのものですから、本当に10代は苦労しました。
そして、話は、飛騨に戻します。
実際に住んでいたのは、(姫であったので、身があぶなかったために、町娘として、城下町で暮らさせられていたようなのです)
飛騨古川です。
今回、福井からの帰路で、飛騨古川に寄りました。
本当にいいところ。昔の街並みがそのままにあって。
一度大火で焼けているようでしたが、そのままに再現されていて、
それが、町の人が町に対する故郷愛を感じます。
瀬戸川のほとりを歩いたり、街並みを歩いているとき、
あ~ここ通ったな。とはっきり思い出しました。
昔は、もっとお侍さんたちが多くて、一本通りの向こう側は、
料亭、殿方たちが集う宿やお店(色恋街というのか)
そういうお店が立ち並んでいて、ちゃきちゃきした女中さんが、
客引きをしていたり、お侍さんたちが、酔って歩いていたり、
そんな明るい場所でした。
でも、わたしはそこに行くよりも、川のほとりの静かなところを歩くのが好きだったのです。
灯篭も、オレンジ色にぽつりぽつりと並んでいる川のほとり。
そして、そこで、恋したものをひそかに待っている想い。
じれったいほどの、想いも蘇ってきました。
昔は、飛騨ときいただけで、悲恋を思い出し、
体中に閃光がはしるように、じっとしておれず、バラバラになってしまうのではないかと思うほどに、
いてもたってもいられなかったのに、今
こうして、飛騨古川にきて、ほとりを歩いていても、
悲恋のことを思い出しても、懐かしさが湧くだけで、
バラバラになってしまいそうな身体の痛みは覚えない。
瀬戸川のほとりで、放されている鯉をみながら、
遊んでいる今生のわが子たちの姿をみながら、
昔、悲恋に苦しんだ私が、この子達と一緒に
この場所に来ていることが、不思議でならないと思えた。
今、身もだえせずにいられるのは、
多分に、この子達のおかげだろう。
長男ココが、しきりに、
「この場所懐かしいんだよね。道もなんか覚えている!」
とずっと言っていた。
たぶん、あんたも、ここにいたんだろうね。
「俺、なんか刀持っていたような気がする」
そうだろうね。たぶんお侍だったんだろうね。
もう、焼けて城はないけれど、
きっと、あんたと私は近い場所にいたんだと思うよ。
長女ハナ(四歳)も、
「あたし、ナナとずっと傍にいたんだよ。あたしたちお姫様だもんね」
と言っていた。ビックリしたが、そうか、あんたもここにいたんだろうね。
でなきゃ、来ないよね。
あ~ここも、あのときのままだなあ、とか、
生殖している樹木をみると、あ~あのときからもあったんだよね。
としみじみと思えた。
大きなイチョウに、話しかけた。
「私、ここに居ました。覚えていますか?
このたびで、魂のご縁で、前世の場所にくることになりました。
これは、どういう意味があるのでしょう?
古川はいいところ。住みたいくらい。
ご縁を感じるところ。
わたしたちは、ここと前世で会ったこの場所で、
この懐かしい想いをどうしたらいいのでしょう?」
すると、イチョウの木がこたえてくれた。
「覚えているよ
昔、この地にいたことも。
その時のあなたの学びは、今のあなたの中に息づいてる。
今生、違う土地に生まれて育ち、
あなたの中に、飛騨にいたときのあなたの息吹が、残っている。
その時、学んだことが、統合されて、今のあなたがある。
だから、今、咲いた場所にいればいい。
来た道を戻って、もとのあなたのご縁ある場所に戻りなさい。
その場所にいても、
ここの記憶や、ここにいたあなたは、
いつもあなたの中にいるから」
木と話させていただいて、
元の世界へ戻ろうと思えた。
歴史トリップ。
これが、本当のトリップアドバイザーだ。笑
また、来るだろうな、古川に。岐阜に。
今生を生きているって、本当にすばらしいことだ。
ありがたい。
それがなかったら、戻ってこれたかわからない、笑
一重に、与えられている
今の生活を大切にしていこうと思った。
大切な心の旅から、戻って、
新たな一歩を踏み出した。
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