Persona and Imitation
ペルソナとは、自己の外的側面。例えば、周囲に適応するあまり硬い仮面を被ってしまう場合、あるいは逆に仮面を被らないことにより自身や周囲を苦しめる場合などがあるが、これがペルソナである。(Wikipedia)
自分の外的側面などと形式張ると難しく感じるが、現代風に言えば、ペルソナとはキャラクターのことだろう。
自分が社会において他者と交わるとき、自分が演じる社会的存在の立ち位置、それがペルソナだ。ムードメーカー、がり勉、情熱家、など挙げきれないほどにキャラクター像は無数に存在する。
ペルソナとは、もとは舞台で用いられる仮面のことを指す。
役者がキャラクターに扮するときに仮面を使用したところから、僕らが社会でキャラクターを演じる在り方に類似を感じたのは、想像に難くない。
僕らが仮面というものについて考えることは、あまりない。
けれども少し考えてみると、色々な面白いことに気が付く。
人が仮面をつけるとき、その人はその仮面が象徴する何者かに成ることができる。と同時に、その仮面をつけている間はその像以外の他の何者にも成ることができない。
仮面は、その本質からして一面的である。
当然だ。仮面の表情は変化しないのだから。
笑顔の仮面をつけている間は明るく在ることを求められるし、苦悶の仮面をつけているときは沈鬱で在ることを求められる。
楽し気な仮面をつけているのに憂鬱そうであったら、なんともちぐはぐな印象を受けてしまう。
そう考えたら、仮面というものはなかなか不便なものだ。
仮面の本質が一面性にあるとすれば、人間の性質の根本は多面性にある。
僕らは時として泣き、時として笑う。複雑な感情要素から成っている僕らの性質を、仮面の一面性で表現し続けることはとても難しい。
けれども僕らは、今も昔もそういったペルソナを好み続けている気がする。自ら望んで、一面的なキャラクターを演じている。
これはなぜだろうと色々考えたが、思うに、仮面を、ペルソナを付けることは、楽なのだろう。
ペルソナとは自分で作るものではない。そもそも仮面とは、それを見た人がそれを見て何を象徴するかすぐに想像できるような象徴物でなければいけない。つまりペルソナとは、誰にとっても分かりやすい、既製品としてのシンボルなのだ。
人はショーウィンドウに並んだ服から自分に似合う服を探すように、自らが演じるキャラクターを選び取る。このとき、選択するという行為以外に人の思考は働かない。
自ら深く考えることをせずとも、在りものの中から自分の装飾品としての仮面を選ぶことができる。
ここに、ペルソナが重宝される理由があるのではないかと思う。
自分が演じるキャラクターを自分で考えなくてよいというのは、なんと楽なことだろう。
ペルソナを付けた後にも同じようなことが言える。
一つの仮面には一つの象徴物がある。したがって人は、身にまとった仮面が意味するところをただ演じるだけでいい。そこに創造性はない。あるのは模倣だ。僕たちがその仮面に対して持つイメージ通りの生き方を、ただトレースするだけでよい。
ペルソナと模倣。
その二つの要素が絡み合い、蠱惑的に僕らを仮面に惹きつける。
しかし、気を付けなければいけない。
仮面は色とりどりで選ぶのも楽しいければ、身に着けた後も楽に生きることができる。
だが、僕らの仮面の下には素顔がある。そこには一面で表せない喜怒哀楽が宿り、そしてその目の先には模倣だけでは進むことのできない道がある。
人生は選択の連続だとも言うけれども、選択をしないという選択もある。
選択をしないとき、僕らは思考することを迫られる。
それはきっと、仮面よりも素敵な素顔を得るための、糧になるだろう。
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