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私は、「日本女性は、虐げられた弱い存在だ」というのが、そもそも欧米の偏見だと思います。大和撫子の真骨頂は「何物にも負けない芯の強さ(心の強さ)」です。●「森発言は社会の反映」変わらぬ日本を伝える海外メディア


「オリンピックにおける女性の役割は、勝者の頭に花冠をかけてあげることだけだ」。今もし国際オリンピック委員会(IOC)の幹部がこんなことを言ったら、瞬時に大炎上間違いなしだが、1世紀前には大した問題にはならなかった。この発言の主はピエール・ド・クーベルタン男爵。IOCの第2代会長で近代オリンピックの父と言われた人物だ。男爵は「オリンピックは参加することに意義がある」の名台詞を残したとされているが、女性が競技者としてオリンピックに参加することには大反対していた。
日本を論じ始めた海外メディア
クーベルタンから約100年。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が日本オリンピック委員会(JOC)の臨時評議会の場で口を滑らした、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」との発言が、大炎上している。炎上は国境を越えて欧米にまで広がり、欧米メディアは案の定、森氏の失言を格好のエピソードとして「日本論」を展開し始めている。
例えばフランスAFP通信は、森発言を報じる中で、「日本は世界経済フォーラムのジェンダーギャップ(男女格差)指数ランキングで、世界153カ国中121位」とわざわざ紹介し、森発言の根底に女性差別に寛容な日本の文化があることを示唆した。米CNNテレビも、同じように世界経済フォーラムのデータを引用した上で、ランキングが低いのは上場企業の役員に占める女性の割合がたった5.3%で、国会議員の女性比率が世界最低レベルの10%だからだと説明を加えた。
米ワシントン・ポスト紙は、日本国内で森氏への批判が噴出していると伝える一方、「報道によれば、評議会の委員の何人かは森氏の発言に笑っていた」とも報じ、森氏の女性蔑視的な発言内容が、ある程度許容されたものだという印象を米国人の読者に与えている。
今後、より多くの海外メディアが森氏の発言や周囲の反応を掘り下げ、日本論にまで深く踏み込んだ記事を発信してくることは想像に難くない。
変わる世界、変われない日本
森発言の最大の問題は、「変わらない日本」「変われない日本」を改めて世界に印象付けてしまったことだ。
そもそも、女性差別は何も日本だけの問題ではない。クーベルタン男爵はフランス人だった。男爵の発言が炎上しなかったのは、当時の世界では欧米を含め、「女性は男性より劣っていて当たり前」との考え方が、少なくとも男性の間では圧倒的に多かったからだ。
【引用中断】
私は、この手の記事には「日本の女性を、虐げられているとか、弱々しいとか誤解しないで欲しい」といつも言いたくなります。
近頃まで、キリスト教の結婚式での女性の誓いの言葉は「神に使えるがごとくに、夫に従います」でした。19世紀まで英国では、結婚すると妻の財産はすべて夫のモノになりました。妻が自分のモノだった土地を勝手に売って現金化したら、夫の財産を盗んだことになりました。
ハッキリ言えば、欧米キリスト教社会では、女性は男性の持ち物に近い感じでした。ですから、女性解放運動が必要だっと言えます。
勿論日本でも農業や戦などでは、体力的に勝る男性の方が活躍するので、古代から戦前までは男性中心社会でした。しかし日本社会では、有史以前が母権性社会であった伝統を完全には失いませんでした。
即ち日本の女性達は、圧倒的に不利な男性社会の中でも、自立精神を失わなかったのです。(と、私は考えています)
例えば、日本に実在して物語になった遊女は「仙台高尾」や「紺屋高尾」であって、「マダムバタフライ」ではありません。
欧米社会では、典型的な日本女性としてはマダムバタフライを思い浮かべる人が多いのかもしれませんが、日本では蝶々夫人は人々(特に女性)の共感を呼ぶ存在ではないので、あまり上演されないのだと思います。
言葉は悪いですが、日本女性一般は「男に捨てられたぐらいの事で、自殺する」女性を素晴らしいとは思わないから、マダムバタフライは流行らず、高尾の物語が伝説になるのだと、私は思います。
日本で、伝説となった遊女は第二代仙台高尾です。
「高尾太夫(たかおだゆう)」は、吉原の太夫の筆頭ともいえる源氏名で、その名にふさわしい女性が吉原の三浦屋に現れると代々襲名された名前です。
その中で2代目 - 万治高尾(仙台高尾)は11代のうち最も有名で多くの挿話があります。陸奥仙台藩主・伊達綱宗の意に従わなかったために、三叉の船中で惨殺されたというのはその一つです。
綱宗と添い遂げた、三浦屋で生涯を閉じたという話もあり、その真偽は不明なのですが、歌舞伎で演じられたことで江戸時代を通して語り継がれていくようになりました。
「かねが物言う浮き世なら、
奥州仙台伊達公に、何故に高尾がほれなんだ」
また、ハッピーエンドの浪曲・古典落語「紺屋高尾」のモデルは、5代目 - 紺屋高尾です。
5代目高尾は、神田お玉が池の紺屋九郎兵衛に嫁した後に、駄染めと呼ばれる量産染色で手拭を製造し、商いに精を出して、3人の子を産み、80歳余まで生きたとされます。
以下、ウィキペギアから引用した古典落語「紺屋高尾」のあらすじ(抜粋)です。
【神田にある紺屋に勤めている染物職人、久蔵…まじめ一途に働く好青年だ。その久蔵が、なぜか三日前から患って寝込んでしまっている。心配になった親方の六兵衛が尋ねてみると、返ってきた答えはなんと「お医者様でも、草津の湯でも…」。 「恋わずらいか!?」
親方仰天。詳しく話を聞いてみると、三日ほど前に友達づきあいで吉原に行き、「花魁道中」を初めて目にしたという。その時目にした高尾太夫のこの世のものとも思えない美しさに魂を奪われ、あんな美人と一晩語り明かしてみたいが、とても無理だ…と、帰ってきたとたんにがっくり来て、寝込んでしまったのだというのだ。
唖然とした親方だったが「このまじめ一徹の男に、面と向かって『駄目だ』というとかえって変になってしまう。ここはひとつ、久蔵の願いをかなえてやろう」と思い直して、「いくら太夫でも売り物買い物だろ? 俺に任せておけば会わせてやる」。
さすがに最高位の花魁だけあって、高尾を座敷に呼ぶのにはどう少なく見積もっても十両はかかる。久蔵の給金の三年分だ。しかし、それを聞くと希望が出たのか、久蔵はにわかに元気になった。
それから三年というもの、久蔵は一心不乱に働いた。親方の発案でお玉が池の竹内蘭石という医者を案内役に仕立てることにした。この先生…なかなか粋な人物。
(竹内蘭石によると)「いくらお金を積んでも、紺屋職人では高尾が相手にしてくれません。そこで、久蔵さんを流山のお大尽(金持ち)に仕立てて、私がその取り巻きということで一芝居打ちましょう。下手なことを口走ると紺屋がバレるから、何を言われても『あいよ、あいよ』で通してください」。
先生のおかげで無事に吉原に到着し、高尾に会いたいと申し出るとなんと高尾が空いていた!しかも、高尾自身も「大名のお相手ばかりで疲れるから、たまにはそんな方のお相手がしてみたい」と言っているんだとか…。
さて…高尾太夫がしずしずと登場。少し斜めに構えて、煙管で煙草を一服つけると「お大尽、一服のみなんし」。松の位の決まりとして、初会では客に肌身は許さないから今日はこれで終わり。花魁が型通り「今度はいつ来てくんなます」と訊ねると、感極まった久蔵は泣き出してしまった。
「ここに来るのに三年、必死になってお金を貯めました。今度といったらまた三年後。その間に、あなたが身請けでもされたら二度と会うことができません。ですから、これが今生の別れです…」。
大泣きした挙句、自分の素性や経緯を洗いざらいしゃべってしまった。流石は最高位の花魁。高尾の方も、久蔵の指先を見てそのうそに気がついていたらしい。怒られるかと思いきや、高尾はなぜか涙ぐんだ。
「源・平・藤・橘の四姓の人と、お金で枕を交わす卑しい身を、三年も思い詰めてくれるとは、なんと情けのある人…」。
自分は来年の三月十五日に年季が明けるから、その時女房にしてくんなますかと言われ、久蔵、感激のあまり泣きだした。
お金をそっくり返され、夢うつのまま神田に帰ってきた久蔵は、それから前にも増して物凄いペースで働き出した。
「来年の三月十五日…あの高尾がお嫁さんにやってくる」、それだけを信じて。
「花魁の言葉なんか信じるな」なんていう仲間の苦言も何のその、執念で働き通していよいよ「来年の三月十五日」…。
本当に高尾がやってきた。久蔵、「ウーン…」と失神。その後、久蔵と高尾が親方の夫婦養子になって跡を継ぎ、夫婦そろって何とか店を繁盛させたいと、手拭いの早染め(駄染め)というのを考案する。その速さと粋な色合いがブームとなり、通称「かめのぞき」と呼ばれるようになった久蔵の店は大繁盛することになった。
「傾城に 誠なしとは誰(た)が言うた?」
以上、紺屋高尾の由来話】
この「紺屋の高尾」は大正末期に篠田実の浪曲レコードで発売されて、当時異例となる人気を得ました。
「仙台高尾」と「紺屋の高尾」の共通点は、自分の意思を持っていることです。
「仙台高尾」は、贅沢な生活を約束してくれる伊達公を拒絶しました。「紺屋の高尾」は年季が明けて自由になる時に、贅沢な生活を約束してくれる金持ちの誰かに自分が選ばれるのではなくて、久蔵の一途な心を自分で選びました。
勿論、日本の花柳界の女性が、皆、金持ちの男性を袖にしているわけではありませんが、一般の人の心をとらえて物語になったのは「仙台高尾」であり「紺屋の高尾」です。
日本にもシンデレラストーリーの「落窪物語」が平安時代から伝わっていますが、お金持ちでハンサムなヒーローに愛され守られて「いついつまでも幸せに暮らしました」という物語が時代を超えて語り継がれるということは、他にあまりありません。
また、話は飛びますが、アニメ「ドラえもん」のヒロインしずかちゃんも、誠実ではあるけれどどこか頼りないのび太くんに、「愛されて守られよう」と思ってのび太くんを選んだわけでは全くありません。
歴史に名を遺した女性達は、「その女性がが○○をした」から歴史に残っています。
私は、日本女性の理想像と言う《大和撫子》とは、いかなる苦難にあっても嘆き悲しむのではなくて、凛として自分の意思と努力で頑張り続ける、強い女性なのではないかと思います。
農業でも戦でも、力では男性に太刀打ちできない。その中でも、心の強さでは決して男性に負けない。男性に服従するのではなく、毎日の静かな努力を続けることで、その姿を目にする男性の心に自然に敬意を育てる、それが日本女性の理想像と言う《大和撫子》なのだと、私は思います。
勿論《大和撫子》はあくまでも理想であって、完全な《大和撫子》はほぼいません。しかし、多くの女性達が《大和撫子》の一部をもっていたりします。
その中に、心の強さが有ったりします。
それなのに、どうも国際社会からは日本女性は「虐げられているとか、弱々しい」とか誤解されている気がします。
そして、外国人「あなた達日本女性は、虐げられた被害者なのだ」と聞かされて、日本女性に被害者意識が植え付けられる事を、私は心配しています。
今の日本では、多くの女性達が、職場では(特に収入面で)確かに不利な立場を割り振られている確率が男性よりは高くなっていても、自分で働いたり(時に)現行の補助制度を使ったりして、自分の力でより良く生活しようと頑張っています。この無数の女性達の頑張りが、周囲の男性の心に自然に敬意を育てているから、少しずつ管理職に登用される女性が増えているのです。
私は、もう30年もこの調子で行けば、日本の職場環境はかなり変わると思います。こうしたボトムアップ方式ならば、日本社会全体が変われると思います。
一方で国会議員や大企業の管理職の割合が○○%になれば男女平等社会になったと判断するのは、間違いの元だと思います。国会議員や大企業の管理職は、男性の中でもエリートです。即ち、エリート女性が高い地位につくということは、社会の中の極々一部にすぎません。重箱の隅の一部です。
ハッキリ言えば、「中国共産党に案内されて中国を視察して、中国は素晴らしい国だと判断する」ことと、50歩100歩です。
女性であろうと男性であろうと、真実仕事で認められるには「どんな仕事を実際にしたか」です。この意味で言えば、「私たち女性は被害者だから、40%の椅子を寄こせと男性に要求(懇願)せよ」と、国際社会から呼びかけられても、日本女性の一人としては到底そんなみっともない要求(懇願)をしたいとは思いません。
なぜならば、私が欲しいのはまやかしではない。
真の敬意です。自然に心に生まれる敬意です。
だから、要求したくないのです。要求すれば「与えてやった」と恩着せがましく、軽蔑されるだけなのだから…。
私たちは「仙台高尾」と「紺屋の高尾」の心を持っています。だから日本女性は、その努力の力で、家庭では深い敬意を去座られ続けてきました。
その日本女性が職場へ進出したのです。ですからいつの日か家庭で捧げられていた母への敬意が、すべての職場で働く日本女性に捧げられる日がやってきます。
要求などしなくても、すでに、認められ、頼りにされ、その地位を捧げられる動きは始まっています。
なにしろ、森さんですらそう言っています。
世界で話題の森喜朗氏の発言の最後の部分
森氏「私どもの組織委にも女性は何人いる? 7人くらいかな。みんなわきまえておられる。みんな競技団体からのご出身、また国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。お話もきちっと的を射ており、欠員があればすぐ女性を選ぼうとなる」
 確かに、欧米とはやり方は違っているかもしれませんが、日本の職場でも男女共同参画の動きは進んでいます。自分達のやり方と違うからといって誤解しないでいただきたいと、私は思います。
それでは最後に、誤解の極致の記事の後半を付記します。
お急ぎではない方は、お読みください。
【引用再開】
世界経済フォーラムがジェンダーギャップ・ランキングを出しているのも、女性差別が世界中に依然として残っていることを示している。
しかし同時に、世界の多くの国や地域、とりわけ先進国の間では、クーベルタン男爵の時代と比べて、ジェンダーに関する人々の見方や考え方、価値観が大きく変化してきているのも事実だ。
欧州では今や、女性が国会の議席の半分近くを占める国も珍しくなく、女性首相も当たり前のようになっている。
米国では今年、女性が初めて副大統領に就任した。アジアでも、韓国や台湾などではすでに女性のリーダーが誕生している。政治の世界だけではなく、ビジネスの世界でも女性経営者や女性管理職が急速に増えている。
そうした国や地域から見ると、日本は相変わらず「変わらない国」「変われない国」と映るに違いない。
実際、世界経済フォーラムのデータが裏付けるように、そう見られても仕方がない面も多い。例えば、政府は昨年末、それまで「2020年までに30%程度」としていた女性管理職比率の目標を「2020年代の可能な限り早い時期」に先送りすることを閣議決定した。女性の社会的活躍を後押しすると見られている「選択的夫婦別姓」の導入も、2021年度から始まる第5次男女共同参画基本計画の案から消えた。
変わらないどころか、後退している感すらある。
LGBT問題も同じ構図
変われないのはジェンダー問題だけではない。ジェンダー問題を社会的マイノリティーの問題と捉えるなら、性的マイノリティーLGBTの問題も一緒だ。
女性同様、LGBTもかつては社会から疎外された存在だったが、欧米先進国ではLGBTへの見方や態度が大きく変わってきている。
バイデン大統領が運輸長官に指名したピート・ブティジェッジ氏は、米史上初となる同性愛者であることを公言した閣僚になる。新型コロナウイルスを封じ込めたとして日本でも有名になった台湾のデジタル担当相オードリー・タン氏は、生まれつき心と体の性が一致しないとして性別を変えたトランスジェンダーだ。
同性同士の結婚を認める同性婚はLGBT問題の象徴だが、その同性婚を法律や判例で認める国は世界で急速に増えている。
同性婚やそれに準ずるパートナーシップ制度が国レベルで整備されていないのは、主要7カ国(G7)の中では、今や日本だけだ。経済協力開発機構(OECD)が昨年公表した各国のLGBTに関する法制度の整備状況に関する報告書でも、日本は35カ国中34位と、他の主要国に大きく後れをとっている。世界が変わる中、日本だけが変われないという構図は、ジェンダー問題とまったく同じだ。
1980年代後半から1990年代初めにかけてのバブル期には、日本の経済進出に対し、米国などで激しいジャパン・バッシング(日本叩き)が起きたが、それを後押ししたのが、日本は他国と文化や価値観が違うという「日本異質論」だった。
当時とは時代も経済状況も違うため、森問題で日本叩きが再び起きる可能性は低いが、「日本は異質な国だ」という見方が強まれば、日本にとってけっして好ましいことではない。
【引用終わり】

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