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乳がん人生を生き切りたいから

私は昔毎日ブログを書いていた。ブログを書くことを人生のテーマにしたい。と思うほどにハマっていた。
そんな私が乳がんになり何が一番変わったかというと「闘病期は書けない」ということだった。なんでだろう、理由などない。もしかしたら書きたくなる時が来るのかもしれない。今は書きたくない。ただそれだけか。

私がしこりに気づいたとき、それはあまりに大きすぎてよく言われるような「ビー玉のような硬さと大きさ」とはかけ離れすぎていた。胸の下半分全体が硬くなっていてテニスボール以上の大きさだった。だから逆にこれは癌じゃない可能性の方が大きいんじゃないか?と思うほどだった。

乳腺外科に行った日は実は今まで検診も受けたことないしそろそろ検診を受けるのも悪くないかな。くらいな気持ちで行った。なぜならこれが癌ならば生きているのが不思議な程の大きさだと素人でも思っていたから。
ところが胸を開けた瞬間先生の顔が変わった。これはまずい。という表情になったのを見逃さなかった。そしてこれはクロかもしれない。と直感した。

長く続くエコー、細胞診はなしですぐに針生検の案内、それも極力早く来てほしいと。夫と一緒に行ったのに呑気に一人で診察室に入ったことを少し後悔した。
この日の帰り私は夫に伝えた。この流れはおそらく90%以上クロだと。そして癌だとすれば大きさから考えて余命を宣告されてもおかしくない。しかしそんな言葉は夫の耳には一切届いてなかった。

2020年7月、私は当時44歳で結婚18年目、息子は16歳。人生を終えるには少し早すぎないか。でもそれが私の運命だったんだ。息子のことだけは少しでもこの手でできることはしないと。あと何年だろう、
2021年の春は夫に連れて行ってもらい桜を様々な場所で何度も見た。この目でこの足であと何回見られる?と何度も涙を流した。この冬はこの世にいられるのだろうか。いつまで自分の足で歩けるのだろうか……。


そして2022年2月の今、ホルモン療法の副作用にやられながらも自分の足で歩き息子の進路を自分でサポートできている。例年にない大雪で2メートル以上の雪壁から空を仰ぐと少しずつ少しずつ春が来ていることを感じる。今年もまた自分の足で歩き桜を見られるのならそれは私にとっては奇跡だったのかもしれない。

ガンと告知された時診察室で倒れた夫、ステージⅢとも知らずに「乳がんは死なないから!」と検索して教えてくれた。ガン罹患前は「家事なんかしたくない」と言っていたのに息子と2人辿々しくいろんな家事を覚えていった。
ステージⅢだからいつ転移するかもわからない。と不安を口にすれば向こうを見て必ず涙ぐんでることを私は知っている。そしてその姿を見てどこか安堵する。結婚して20年、側から見ても決して仲良しとは言えない夫婦だったけどきちんと大事にされていた、愛されていたんだと。

手術後病理では11.5センチもの癌が浸潤して広がっていた。私はいつでもその時の覚悟はできている。今生かされている奇跡に、息子が成年となる18歳になるのを見届けられるだろうことに、一番憎んだけれど一番愛した夫と生涯を共にできたことに、振り返ればいい人生だったと心から思いながら。

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