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映画「TAR」感想:答えが人を巻き込むSNS時代に、クラシックはどう問いかけるか?

曲の中に入り込むと本質が聴こえてくる
それは問い
答えでもある
それがまた問いを生む
バッハは謙虚で確信者のふりはしない
聴き手を巻き込むのは常に問いだからよ
答えじゃない でしょ?
さて あなたに問うわ
彼をどう思う マックス?

作品内で主人公ターがバッハについて語ったセリフと同じように、映画『TAR』の中では、私たち観客は常に「問い」を投げかけられる。
映画冒頭から、登場人物の性格、人間関係、彼らの間に過去何があったのか明確に説明されない中、私たち観客は人物のセリフや行動から主人公ターを中心に「彼女は何者なのか」という問いを解くため、画面の隅々──ターがパートナーに飲ませた薬の出処、一瞬だが印象的に映る赤髪の女性、登場人物たちの視線一つひとつにいたるまで──に目を凝らす。
この映画では「答え」となる確信的な場面ややりとりは一切映されず、私たちは映された言動からターの人柄や周りとの関係性を、彼女の表向きの行動やセリフにだまされずに、解き続けなければならない。

そうして登場人物の一挙手一投足、画面に映る隅々まで目や耳を凝らしていると、徐々に問いかけられる「問い」の種類が変わっていることに気付かされる。物語の中で、ターが追い詰められるに連れて画面に彼女の幻聴幻覚とも思われる表現が混ざり始めるのだ。
ランニング中彼女が聞いた女性の悲鳴、彼女を追いかける影、極めつけはいるはずのない赤髪の女性の姿。
客観的に人物の言動から関係性を類推する謎解きに興じていた私たちは一転してその前提となるはずのスクリーンに映る事物に対して「それは存在しているのか」「ターの幻覚だとしたら、どういった深層心理を表しているのか」と新たな問いを投げかけられる。

そうして狂っていったターは地位や名声をすべて失ってアジアに行き着く。
SNSでも話題になったラストではコスプレをした子どもたちに向けて、流れる映像に合わせてタクトを振るうターの姿が描かれる。
このラストは数々の問いを投げかけてきたこの映画は最後に観客に問いかける。

「彼女をどう思う?」

この問いに対する観客たちの反応は様々だ。
「孤高・ストイック・傲慢・そして繊細」
本作のプロモーション映像で流れる文字にあるように、スクリーンに映った事物の何に目を向けて、何を見落とすかでその印象は180度変わる。ある人にとっては孤高の天才、ある人にとっては傲慢な権力者だ。またアジアという地域が、没落の末にたどり着いた先なのか、原点に回帰したのかも観る人によって解釈を二分する。
そうした問いに巻き込まれ、観客たちは2回3回と劇場へ足を運ぶ。
そう『ター』という映画は作中でバッハが評されたように、謙虚に事実を断定せず何重にも「問い」を潜ませることによって、観客を惹き込むまさしく名作といえるだろう。

だが一方で、「問い」をはらむバッハの曲たちは、作中「SNSに魂を形作られている」マックスには届かなかった。そして「問い」を大切にしたターは、その様子を編集された動画──彼女が悪者であるとわかりやすい「答え」を提示している──によって、その地位や名誉を失っていく。そう、私たちがいるこのSNS時代では、小難しい「問い」よりもわかりやすい「答え」が圧倒的に多くの人を巻き込むのだ。

そしてバッハほどではないにしろ20世紀に隆盛を誇った映画も、今やNetflixなどのサブスクリプションコンテンツや、YouTubeやTiktokなどの手軽に見られる動画プラットフォームにその座を譲った”クラシック”だ。動画コンテンツをそのあらすじだけを追うために早送りで観る人々がいるように、映画もまた「問い」よりも「答え」を求められている。
つまり、問いを投げかけられているのはこの映画を観る観客だけではない。映画そのものが時代に問われているのだ。「答えが人を巻き込むSNS時代に、クラシックたる映画はどう問いかけるか?」と。

残念ながらこの映画は、その問いに応えることはしてはいない。
今後、古典としての映画は、この問いへの答えを求められ続けるのだろう。

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