天滝

迷子の妖精を拾った。
彼女曰く、道に迷っているのではなく、人生に迷っているらしい。しかしよく話を聞いてみると、やはり道にも迷っているらしい。
なんだか面倒臭いなあと思いながら放っておくこともできず、とりあえず彼女には僕の胸ポケットに入ってもらった。そうするともう家に連れて帰るしかないという気になってしまったので、仕方なく部屋に連れ帰ることにした。

ハンカチで座布団を、そしてシャープペンシルの消しゴム部分のキャップをコップ代わりにお茶を出した。
「このコップ……」
「無茶苦茶洗ったから」不満そうな彼女の言葉を僕は遮った。彼女は肩をすくめると、茶を一口飲んだ。そして彼女が再び口を開く前に、僕は先手を打った。
「道案内ぐらいはしよう。でも人生の案内はできない」
「拾ったのだから責任を持つべき」
間髪を入れずに彼女は言った。僕が感じた面倒臭さはたぶんこの辺りから来たのだろう。人であれ妖精であれ、第一印象というものはまあ、当てになるものだ。そして僕というものは非常に流されやすい。
「だからと言って僕にどうしろというの」
「天滝まで連れて行って。わたしの家はそこなの」
「天滝ってあの天滝?滝百選の?」
「そう。百選の。中の一番美しいとされる」
「そこからどうやってここに?」
「どうやってもこうやっても、わたしは初めからこの街にいた。この街で生まれて、学校に行って、昨日まで仕事もしてた。でももう帰りたい。けれど帰り方がわからない」
滝の妖精だからと言って、滝で生まれるわけではないらしい。
「そういう先入観は良くないと思う」
それに、一体妖精の仕事とはどんなものだろうとも思ったが、面倒なので口にするのはやめた。
「あなたの悪いところは何でも面倒くさがるところだと思う」
「君の悪いところはそうやって勝手に人の頭の中を覗くところじゃないかな。今後はやめてくれ」
そう言うと彼女は少し逡巡し、「わかった。もうしない」と言った。案外素直なところもあるようだ。
「案外とは失礼な」
「そういうところだぞ」
「わかった。もうしない」
「とにかく、君を天滝まで連れて行けばいいんだね。それぐらいならまあ、いいよ」
すると彼女はふわりと浮き上がり、そのままするりとぼくの胸ポケットに入った。そして早く行けと言わんばかりにドアを指差した。僕はため息を一つつき、彼女に従った。

「結構きついね」天滝までの山道は、整備されているとはいえ、運動不足の僕にとってはなかなか息の上がる道のりだった。
「うん……」彼女も彼女で、大きく揺れるポケットの中はつらいのだろう、手で口を押さえている。
飛べばいいのに。と言いたいのを堪えて、代わりにふと思ったことを僕は口にした。
「どうして急に帰りたくなったの」
「昨日まで知らなかったの。自分が天滝で生まれたことを。どうにも疲れて、水道の蛇口をぼんやり見てたの。蛇口からぽたぽた垂れる水滴を。そしたら四十二滴目で気付いたの。自分の家が天滝なんだって」
「妖精はみんなそうやって気付くもの?」
「ほとんどの子は気付かないと思う。でも気付いてしまうといてもたってもいられなくなるものみたい。それよりこの揺れどうにかならない?」
「飛べばいいんじゃないかな」
すかさず僕がそう言うと、彼女はポケットから僕を見上げた後、ゆっくりと外に出た。僕の顔の少し前を飛ぶことに決めたようだ。
そこから二十分程はお互いの息遣いを感じながら、何を話すでもなく、黙々と登った。
彼女が再び胸ポケットにするりと入ったのは、飛ぶことに疲れたからだろう。僕も繰り返すアップダウンと、強さを増した日差しに疲れ、一休みすることを提案した。彼女は素直に受け入れた。
コケがもさもさと生えた切り株に腰を下ろした。そこで僕はひどく喉が渇いていることに気づいた。そういえば身一つで来てしまっていた。水すら持っていない。山を舐めるなとお叱りを受けそうなものだ。
「喉が渇いたの?」
「また……」
「違う。覗いてない。あなたがじっと川を眺めていたから」
「そうか。うん、とても喉が渇いたよ。からからだ。こんなに渇くものかな?とにかくなにか飲みたいよ」そう言っている間にもどんどん渇きが増している。毛穴という毛穴から水分が奪われていくようだ。側に川は流れているが、ここからだと崖を降りていかなければならない。そして僕は今、崖を降りてでも水が欲しい。
すると彼女が「手を出して」と言った。
「両手を出して。顔を洗う時みたいに」
「こう?」僕は両手を揃えて胸の前に出した。
「そのままじっとして」彼女は僕の手の上に降りてきて手をかざし始めた。すると僕の手の中になみなみと水が注がれた。というよりは湧き出したと言った方がいいかもしれない。湧き出した水はやがて溢れ出した。僕は咄嗟にその水を飲み干した。
「おいしい?」
「とても。こんなことができるんだね。この力の方を前面に押し出した方がいいよ。頭を覗くことより」
「この力を使って、人を洗脳することがわたしの仕事だったの」
「え……」
「水を飲んだが最後、もうあなたはわたしの手足みたいなもの」
「うそだろ……」
「うそよ」
「本当に?」
「滝百選に選ばれるためにしか使ってない」
「使ってるじゃないか」頭を抱える僕を置いて、彼女は先に行ってしまった。あとを追う僕を振り返りながら彼女は踊るように飛んでいる。
やっと追いついた時、彼女が僕を振り返った。
「この階段を登れば、もうすぐそこ」
そこには、少し急だがきちんと整備された階段があった。僕はその階段を一つ一つしっかりと踏みしめながら慎重に登った。
最後の一段を登り、顔を上げると、正面にどうどうとした、正に天から降っているとしか思えないような荘厳で雄々しい滝の姿があった。思わず体が仰け反った。絶え間なく岩に打ちつけられるその水音に脳が揺れる。圧倒的だ。そのまま仰向けに倒れてしまいそうになるがなんとか踏みとどまり、僕は重い一歩を出した。その後は二歩、三歩と矢継ぎ早に足を出し、押し戻されないように更に更に滝の元へ進んだ。一歩一歩、高揚するのがわかった。しかし視界の先には、その僕の高揚をも一足飛びに飛び越えて、まさに一直線に滝の元へ飛んで行く彼女の姿があった。そんな彼女の姿は、僕の高揚を焦りに変えた。濡れた岩に何度か足を滑らせつつも、それでもなんとか転ばずに滝の側まで来た。まだ彼女の姿はある。僕は更に急ぐ。いよいよ滝の飛沫が顔にかかり、手で触れられるところまで来た。そして手を伸ばせば、彼女にも触れられる。
しかし僕は、どういうわけか手を伸ばすことが出来ないでいた。
空中に浮かぶ彼女の後ろ姿は、陽の光を虹色に反射させている。
手を伸ばせば触れられるその距離で、僕はただじっとその姿を見ていた。
そして彼女は、僕を振り返ることもなく、力強く打ちつける水の中に溶けていった。
溶けていくのをじっと見ていた。
僕はようやく彼女に手を伸ばした。水が僕の手に触れた。
生き返るようだった。僕の細胞はからからに渇き、ばらばらに離れてとうの昔に剥がれ落ちそうになっていた。
その細胞の隙間一つ一つに水は流れ込んできた。僕を満たしていくこの喜びは、僕のものだろうか、それとも彼女のものだろうか。

僕はそっと滝から手を離し、見上げた。天辺は見えないが、凛々しく素直な流れだと思った。

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