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城崎温泉

「ひゃあぁ落ちる、落ちる」

視界がスローモーションになる中、最後に目に入ったのは、頭に布を載せた裸の男だった。


青い空の下、平日の昼間っから浸かる温泉ほど心地良いものはない。ここに酒でも浮かばせれば最早極楽と言って良いだろう。
もう一人いた客は出て行ったため、今は貸切状態となりまさに極楽の入り口であった。

私は城崎温泉の中でもこのさとの湯が気に入っている。ここの二階にある露天にて夏の青空を眺めながら湯に浸かるのがたまらないからだ。温泉と言えど、冬とは違った楽しみ方があるものだ。

だいぶ体も温まり、そろそろ頭に載せたタオルを取って湯から出ようとした時、その青空に見慣れないものを見つけた。
それはものすごい速さで私に近づいている。つまり、落ちて来ている。と考えている間も無くそれはばしゃん!ととてつもない音を立てて私の目の前に、湯の中に落ちた。

私は大きく仰け反った。
隕石か、いや違う。動いている。
それはばしゃばしゃともがいている。溺れているのか。大きさはハトぐらいであろうか。
そうして見ている間もまだばしゃばしゃともがいており、心なしか少しずつその勢いが弱くなっている。
私は迷った。迷ったが意を決してそれを掴み、えいと湯の中から引き揚げた。
しかし引き揚げた途端それの姿に驚き、情けなく「わあああ」と声を出しながらそれを宙へ放り投げた。
それは弧を描いて石畳の上にコツンと落ちた。
そして動かなくなった。

隕石か、鳥か。そう思ったが全く違っていた。これが何なのかはわからないが、一番近い例えは、ダイオウグソクムシだろう。多足系で甲殻類のような殻を持ち、ダンゴムシよりははるかに大きい。ダイオウグソクムシなのか。しかし空から降って来たのは一体どういうことだろう。
私は湯船に尻餅をついたまま、どうすることもできずにただそいつを見ていた。あまり見たくはないが、しかし目を離すのも怖い。逃げれば良いが、しかし足が動かん。頭の中だけがぐるぐる目まぐるしく動く中、そいつがついにぴくりと動いた。
私は後ずさった。よくはわからないが、見られている気がした。というよりまじまじと観察されている。目がどこにあるのかはわからないが、しかしはっきりとそう感じ、鳥肌がたった。
鳥肌がたったおかげかなにか、私はようやく足を動かすことができそうだった。急いで湯船から尻を上げると、同時にダイオウグソクムシが大きく動いた。
私は再び尻餅をついた。

ダイオウグソクムシはみるみる姿を変えている。硬そうだった甲殻はまるで液体のように広がったり縮んだりしながら、どうやら少しずつ大きくなっている。
そして私は気付いた。それが人型に変体していることに。そしてそいつは、まさに私と瓜二つとなった。まるで鏡を見ているかのように。
そいつは額から黒い液体を垂れ流している。私は無意識に自分の額を確かめる。手には何もつかない。
するとそいつも額へ手をやり、そしてその手を自分で確認した途端「ひゃあ」と言い、目を上天させながら仰向けに倒れた。

湯船に白目を剥いた私が浮かんでいる。
私は私を覗き込む。するとそいつは、今度は目を閉じ、小さなうめき声をあげ、顔を歪ませた。痛むのだろう、額が。私はかなりためらったが、取り敢えずそいつの体を風呂の縁へと運んだ。程なくしてそいつは、ゆっくりと目を開けた。
「いたい……」
「額か?」
「あしも……」と言って手をさすっている。今にも泣き出しそうな顔だ。
「お前言葉がわかるのか」どうにも鈍臭そうな雰囲気に、恐怖感はかなり薄れている。ただ不快感がある。
「あな、たの頭の中を……」とまで言うとそいつはハッとした顔をして口を噤んだ。
「お前はあれか? 宇宙人なのか?」私がそう言うと、そいつは「どうしてわかっちゃったんですかあ」と大きな声で泣き始めた。泣きたいのはこっちだ。
「だからだ、もう擬態? でいいのか? 擬態なんかやめてさっさと帰ったらどうだ?」私は一刻も早く私の穏やかなる日常に戻りたい。
「……帰れないんです」
「いや、帰れるさ。来られたんだから。さあ。帰りなさい。見届けてあげるから。ね」
「帰れないんですよ、足が痛くて」
「そこは手だよ」
「足が痛くて飛べないんです。軌道までジャンプできない」
「わかった。じゃあせめて、その姿をやめてくれ。どうせならとびきりの美女にでもなればどうだ」
「美女とは何ですか」
「いや、いいや。とにかく私はもう行くから。手が治ったら帰りなさいね」
私はもうとにかく関わりたくなかった。宇宙人と言えど間抜けそうだし、放っておいても侵略などはできないだろう。私は急いで着替えを済ませ、次なる目的地である地蔵湯へ向かうことにした。荷物を持ち、出口の方を見ると、私がいた。きっちり同じ服まで模している。
「あの……」
「勘弁してくれ。まさか付いて来る気か?」
「お願いします。見知らぬ土地で、とても不安で……」お願いしますと何度も頭を下げている。不思議と邪険にできない。まさかこうして少しずつ侵略するスタイルなのだろうか。と一瞬疑いたくなった。
「わかった。わかったからとにかく顔を変えてくれ」
「皆この姿ではないのですか?」
「よし。外に出よう。たくさんモデルがいるから」

外に出ると、真っ先に他の者の姿を記憶させ、物陰で姿を変えさせた。彼(性別はわからないが)が選んだのは大学生風の、あまり特徴のない青年だった。書生風の眼鏡をかけている。
「おかしいですか?」
「いや、十分だ」
私は地蔵湯へ向かった。それ程速く歩いているつもりはなかったが、眼鏡君が付いて来ている気配がなかった。諦めたのかな、と何となく振り返ってみると、眼鏡君は右足を引きずり、右手もだらりと下げたまま、陽射しの中を一生懸命に歩いている。思わず駆け寄ってしまいそうになる。私は少し眼鏡君を待ってから、先程より速度を緩め、再び歩く。
非常に面倒くさい。

地蔵湯には数人の先客がいた。私は、一日湯に入り放題パス『ゆめぱ』を慣れた手つきでピッとやり、さっさと浴場に向かおうとしたが、眼鏡君のゆめぱがなく、また金もなく、従業員の方に詰め寄られ途方に暮れていたため、私は渋々眼鏡君の分の金まで払うことになった。

ようやく湯に浸かり、「ふう〜うあ」とやっていると、視界の端っこで眼鏡がもじもじやっている。
「どうしたの」と聞くと「あつい」と眼鏡君は言う。確かにこの湯は少し熱い。結構熱い。けれど隣でずっともじもじやられてはたまらない。私は眼鏡君の腕を掴んで一気に湯に引き入れた。まるで河童になったような気分だ。
初めこそ眼鏡君は熱い熱いと喚いていたが、すぐに大人しくなった。気がつけば眼鏡君も「ふう〜」とやっている。

「そう言えば、どうして落ちて来たんだ?」
実に自然にその言葉が口をついたが、今冷静になれば、聞きたいことが山ほどある。
「見惚れてしまったんです。まん丸の、真っ青なこの星に。見惚れるなよって忠告を受けていたのに。見惚れてたらもう引っ張られちゃって、気がついたらここに」
「帰れるのか?」
「足が治れば。けど荷物を落としてしまって、あまり帰りたくないという気持ちも……」
「荷物?」
「はい。仕事で、荷物を運んでいたんですが、どこにも見当たらなくて。会社に戻りたくないなあ、なんて」
地球だろうが宇宙だろうが、悩みというものは大して変わらず、そして鈍臭い者にとってはどこであろうとも生きづらいものらしい。救いがない。
「この地蔵湯は衆生を救ってくれるらしいぞ」
「え?」
「いや。じゃあここでちょっとバカンスしていけばいいんじゃないの。ケガだってしてるんだし」
「そんなこと言ったら即クビにされてしまいますよ。元々私、鈍臭くて、合わせ技一本? 数え役満? でクビ寸前なんですよ。むしろ挽回しないといけないのに……」
そうして話がどんどん湿っぽく、子泣き爺のように重くなりかけた時、私は眼鏡君の顔が真っ赤であることに気づいた。
「いかん。ちょっと出なさい。半分でいいから」私が風呂の縁へ腰掛けると、眼鏡君もふらふらしながらそれに倣った。
「熱いです」
「うん」
「ふわふわします」
「逆上せたんだ」
「でも、なんだか足の痛みがかなりマシになったような気がします」
「温泉だからね。うちみとか神経痛にも効く。宇宙人にも効果があるんだな。もう一つぐらい入ればピタッと治るんじゃないの」
「温泉? この湯のことですか? 入るだけで治るの?」
「治る場合もある、ぐらいのものだけどな。宇宙人には効果覿面なんじゃないの」
そう言うと眼鏡君は再び肩まで湯に浸かり始めた。さっきまでに比べて動きが機敏になっている気がする。しかも子泣き爺まで振り落としたかのように、表情が晴れやかになった。
「さあ、私は次に行くぞ」
「あ、はい」

外へ出ると、少し日が暮れていた。薄紫とオレンジが混ざり合った景色に、街灯と宿の灯りがポツポツ灯り始めている。人通りも更に増え、昼間より賑わっている。何故だろうと思ったが、すぐに合点がいった。温泉沿いを流れる大谿川で、今日は灯籠流しがあるのだ。
川沿いで、灯籠に願いを書かんと待ち侘びている人々を横目に、私たちは一の湯へ向かった。

「なんだか人が増えていましたね」眼鏡君はもう慣れた様子で先に体を洗いながらそう言った。
「灯籠流しがあるからね」
「灯籠流し?」
「うん。灯籠をね、川に流すんだ。本来、灯籠流しは死者の供養が目的なんだが、ここでは灯籠に願いを書いて流すんだ」
「願いを。そうすると叶うのですか?」
「さあ。そう信じる者が書くんだろう」
私は体を洗い終え、一の湯名物の洞窟風呂へ向かった。ここへ来ると、『グーニーズ』を思い出すのは私だけだろうか。
しかし非日常と冒険に憧れたのは私だけではないだろう。
「そう言えば」ふと思い出したことがあった。
「落とした荷物とは何だったの?」
「顧客の、お届け物です……」そうボソリと呟くと、彼の顔はみるみる真っ青になった。というよりはグレーと言った方が近いか。
「それは何と言うか……すまん。かける言葉もない」
「この辺りに落ちているとは思うのですが……。夜になれば見つかりやすいかも」
「夜に? 光ったりするのか?」私は冗談で言ったつもりだったが、眼鏡君は「はい」と答えた。
「両手で抱えられるくらいの大きさで、常に光っているので夜の方がわかりやすいかと……あの、話が戻るのですが」
「うん? 」
「私、灯籠、やりたいです」思いつめた表情と突然のカタコトで眼鏡君が言った。
「無料みたいだし、上がったら行くか」
「お願いします」眼鏡君の顔色が少し戻った。私は少し安堵した。

メインストリートの端に机と椅子が並べられている。そこに座り、私たちは灯籠に願いを書く。眼鏡君は灯籠にびっしりと文字を書いているが、私には読めない。全く初めて見る文字だが、美しい字だと思う。私も一言だけ書いたが、眼鏡君には読めないだろう。出来上がったものを係の人に渡し、私たちは川下の方へ歩くことにした。
たくさんの、色とりどりの灯籠がゆっくりと川下へ流れている。
眼鏡君は欄干にもたれかかり、川を、灯籠を見つめている。
「私の灯籠はちゃんと流れているでしょうか。溺れていないでしょうか」
「穏やかな川だから。大丈夫さ。今に荷物も見つかるよ」
「どうしてわかったんですか。私の願い事」
「いやまあ、わかるよね」
「あなたは何を願ったんですか? 」
「私は……」言いかけた時、川を見つめる眼鏡君の目が大きく開かれた。かと思うと欄干に足をかけている。
「待て。やめなさい。それはだめだ。」私は眼鏡君の肩に手をかけ必死で止める。訳がわからない。今の今まで穏やかに話していたじゃあないか。
「み、見つ、見つけたんです! 行かせてください! 」眼鏡君は力を緩めない。
「わかった! わかったから少し落ち着いて。そのまま飛び込めば大事になる。そうだ、あれだ、君本来の姿に戻りなさい」言うや否や、眼鏡君はするりとダイオウグソクムシに戻り川にダイブした。小さな彼を気にする者は誰もいないようだ。私はとりあえず胸を撫で下ろした。

なかなか彼は戻って来ない。
そもそも彼は泳げるのだろうか。もしや溺れているのでは? そんな思いが頭をよぎり始めた頃、足下に何かが纏わりつく気配がした。見ると、ダイオウグソクムシだった。
「うわっ」私は思わず大きな声を上げた。視線が集まる。咄嗟にグソクムシを小脇に抱え、私は小走りでその場を去った。

路地裏まで来ると、小脇の彼を下ろした。よく見ると彼の背中が淡く光っている。
「見つけたのか」
「ありました! あったんです! 私もう駄目かと……あ、そうだこのままじゃ」
「いや、いいよ。そのままで。そのままでも喋れるんだな。とにかく、あって良かったよ。そういや、足の調子ももうだいぶ良いんじゃないか?」
「あ、はい。もうこの通りです」
「うん、わからん」眼鏡君はもぞもぞと動いた。どうやら私に足を見せているようだが、わからん。
「ふふ。ケガも治るし、願いも叶う。ここはすごいですね。わざわざ願い事センターに持って行く必要がないんだから」
「君の日頃の行いが良いんだろう。ところで、願い事センターとは? 」この短時間で大抵のことには動じなくなったと思うが、これは聞き流せない。
「知りませんか? 私のこの、荷物を届ける場所です。私は願い事を配達するのが仕事なのです」
「それ、願い事なの? 誰の? 何の? どこに? どういうこと?」私は混乱している。
「個人情報なので詳しくはお答えできませんが、契約者の願い事を願い事センターへ届けるんです。そこで叶えられる物を選別して成就係へ送るんですよ。後は執行人がその願いに沿って仕事を行います」
「それで願いが叶うの?」
「執行人の元まで届いたものは叶いますよ」
「そんなことが……」私が言葉もなく驚いていると、「そうか。ここはまだ未開拓なのか。でも灯籠があれば必要ないものな……」などと、眼鏡君はぶつぶつ言っている。
すると、眼鏡君の独り言をかき消すように、突然どおんと大きな音が轟いた。眼鏡君が飛び上がる。
「花火だよ」
「花火? 」
「百聞は一見にしかずだ」
裏通りを出てメインストリートに戻る。たくさんの人の頭はみな、川下を向いている。その先に、大きな音と共に煌びやかな花が、夜空いっぱいに打ち上がっている。
「おお。結構な迫力だ」そう言って眼鏡君を見下ろすと、眼鏡君は私の足に登ろうとしていた。
「そうか。見えんわな。ほら」
私は眼鏡君を持ち上げ、頭に載せた。
「うわ、あ」眼鏡君は感嘆の声を上げた。

15分程の煌びやかな夜空のショーが終わり、人々が散会し始めた。みな各々満足げな表情を浮かべているが、たまにチラチラと私の頭を見る者もある。
私たちは再び無言で裏通りを歩く。
「あの」眼鏡君が口を開いた。
「あなたの願いは何ですか」
「叶えてくれるのか」
「私の手を取って、願ってください。あ、届かない」
私は眼鏡君を掴み、小脇に抱えた。眼鏡君は短い手を一生懸命伸ばしている。私はそれを掴み、願った。すると眼鏡君の背中の光が強さを増した。
「受け承りました。必ず届けます」
「もうよそ見するなよ」
「ふふ。あの」
私は眼鏡君を地面に下ろしてやった。眼鏡君は一度私の足にしがみつくと、ゆっくりと離れ、ふわっと飛び上がり、そのまま遠く遠く、花火よりも遠く、空に消えていった。

私は毎年城崎に来るようになった。夏がそろそろ終わる頃に寄り、花火を見て、地蔵湯に浸かって帰る。
今日も地蔵湯で花火の余韻に浸っていると、「あの」と声をかけて来る者があった。
「君は……」眼鏡君だ。彼本来の姿ではないが、以前と変わらない、書生風の眼鏡をかけた眼鏡君がそこに立っていた。眼鏡君は両手を広げて私に近づいて来たが、私は彼を諭すように丁寧にお断りした。抱擁するには場所が悪すぎる。
それを理解した眼鏡君は少ししどろもどろしながら「あの、こちら、執行人の方で、あとは、ツアーの……」と、紹介を始めた。
見ると眼鏡君の横にはずらっと人が並んでいる。
「ツアー? 」
「はい。私城崎温泉ツアーを立ち上げたんです。とても、その、大人気で。今は仕事がとても楽しいんです」
私は笑いがこみ上げて仕方がなかった。ついに声を上げて笑った。
「そりゃあ良かった。君のそんな顔が見られるなんてな」
宇宙からのツアーなんて、よく考えたものだ。大人気ということは、すでにたくさんの宇宙人がもうここには来ているということになる。そのうち、『宇宙人も大絶賛!』とかいう幟でも立つのではないか。ふふ。
「あの」
「ああ、すまん」
「あの、今日は執行人の方も同行したいと言うので、一緒に来てもらいました。こちらが……。あ、すみません。ちょっと私向こうのお客さんの所へ行きますね」そう言って眼鏡君は執行人とやらの紹介もそぞろに、客の世話を焼きに行った。その姿は結構板についている。
私が眼鏡君の働きっぷりを眺めていると、私の肩をとんとんと叩く者があった。
「私は執行人と申します。ご覧頂きましたように、あなたの願いが叶ったことを報告に参りました」
「ああ。ありがとう。幸せそうで何よりだ」

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