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ありがとうさようなら、栗の木。

季節がなくなったーー。

今のアパートに住んでもうすぐまる5年。カーテンをあけると、いつもそこには栗の木があった。

まだ肌寒さの残る5月。やわらかな新芽の緑を見つけると「あぁ、春だ」とほっこりした気持ちになり

日に日に青々しく葉が茂っていくさまをみては、新緑の季節の“勢い”に胸をおどらせた。

生成りのレースのような花をいっせいにつけるとその強烈なにおいに鼻がもげ、1ヶ月ほどは少しガマンの時期。

それでも、カーテンをあければあざやかなグリーンがまぶしく、梢にとまった小鳥のさえずりにいたっては耳に心地よく。

栗の木を住処にするという蛾・クスサンのサナギをベランダで大量に発見したときは、悲鳴に似た声もあげたっけ。

凛々しかった緑のトゲトゲも茶色に色が変わり、秋の訪れを教えてくれる。

買い物への道中、中身は誰かがとっていったのだろう、落ちてる空っぽのイガを、お行儀悪いとはわかりつつも足で道の脇へ寄せてたりした。

冬。冷たい風が吹く頃は、ベランダにハラハラと葉っぱが舞い落ちてきて、毎日掃き掃除。正直面倒だなーと思いつつ、2歳の娘は落ち葉をひろって「はっぱー!」とニコニコ見せてくれる。


その栗の木が、なくなった。
ふと窓の外を見ると、視界にいつもの木が跡形もなくなっていた。

土地の所有者のおっちゃんが、みずからの手で伐採したのだ。どおりで、チェーンソーの音がけたたましく聞こえてきていた訳だ。

家に居ながらにして季節を感じさせてくれていた、栗の木。

5年前、引っ越したばかりで心にぽっかり穴の空いたわたしの心を、毎日なぐさめてくれていた立派な栗の木。

鳥の鳴き声がどこから聞こえてくるのかと、木にとまる姿をさがして見つけて、そのたびにほっこりした。

当たり前にあった風景が、なくなってしまった。
自分でもおどろくほどの虚無感に襲われている。

誰かがつくった景観に支えられて、これまで過ごしてきただけなのに。いつしか栗の木は、わたしにとって友達のような存在になっていた。

いつもそこに変わらずいて、毎日カーテンをあけるたびに「おーい」と話しかけてくれているようだったから。

窓の外をみても、もうなにもない。とてつもなくさみしい。でも、仕方のないこと。

これまで季節のうつろいを教えてくれて、わたしの心を支えてくれて。

5年間ありがとう。ゆたかな時間を過ごせたよ。

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