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【14,806文字の短編小説】拝啓 もう、あなたに会えなくても


【あらすじ】
 退職間近に夫を亡くした秋子は失意のどん底から這い上がれずにいた。三回忌が終わり月日が流れ、秋子を取り囲む周囲の状況が次々と変化し始める。愛猫が消息を絶ち、娘が結婚したい人がいると言い出す。周囲に取り残され人知れず孤独と葛藤する秋子の心は、近所に住む友恵との交流で少しずづ変化を見せ始める。喪失体験によって生み出されたグリーフ(悲嘆)から抜け出し前に進もうとする一人の女性の物語です。


【本文】

 「裏切り者。夫に先立たれた私を一人にして、あんた、自分だけ結婚して幸せになろうだなんて、どうしてそう思えるの? 絶対許さない。許す訳ないじゃない。この親不孝者」

秋子は、食器棚に戻そうとしていた平皿を床に叩きつけて、膝から崩れた。涙は次々溢れ、床か食器の破片か区別がつかない程に視界がぼやけている。

 「お母さんは、私の幸せはどうでも良いの? 私だって家族なんだから、お父さんが死んで辛いに決まってるじゃない」

 彩子も顔を真っ赤にして言い放った。

 「あんたは、これから結婚したりして楽しい人生が待ってるじゃない。私には、もう無いのよ、そんな人生っ」

 「私が結婚したら、家族が増えるじゃない」

 「そんなものいらない」

 「どうしてよ。何で娘の幸せを考えてくれないの」

 「悪いけど、あんたの幸せなんて考えられないわ。私は自分の事で精一杯」

 「お母さんは、結婚を経験してる。私はまだ経験していないの。お母さん一人置いて行こうだなんて考えてない。結婚したら男出だって出来るじゃない。助け合えるじゃない」

 「そんな事言って、あんたは親はどうなってもいいんでしょ」

 「誰がそんな事言ったのよ」

 「だってそうじゃない。親が寂しい思いをしてる時に自分だけ幸せになろうとしてるじゃない」

 「自分だけ、辛い思いしてるなんて思わないでよ」

 「あんたも辛いかもしれないけど、一番辛いのは私なのよ。周囲に助けてもらわないといけないのは私の方なのよ」

「お父さんが死んでから、私がどれだけお母さんに気を遣って、三年間遊びにもいかないで家の事して、尽くしてきたか分かる? 私は父親亡くして、母親にも気遣って、もう体が限界なんだよ。私の辛さはどうしたら良いの? 父親が死んだら、結婚する事も許されないの? お母さん、おかしんじゃない」 

 「おかしいのはあんたでしょう。台無しにしてやる。あんたの幸せなんか」

秋子の眼光は鋭く彩子の目に刺さり、彩子は鳥肌が立つのを感じた。


猛暑の続く毛呂山町。小さな雨粒が乾いた縁側を濡らしていく。

 ソラシ、ソソラシー

遠くに聞こえる鳥の声がある。もう昼前だというのに野鳥のさえずりが響くほかは静けさを保ったままの滝ノ入集落。深緑の山一帯が冷たく薄いカーテンに覆われていく。伸びの良い鳥の声とは対照的に、ペンを持つ手が進まない。黒いインクが滲んで文字が崩れた。
(可哀そうな私……)

「秋子さぁん、ほら雨。洗濯物、濡れちゃうわよぉ」

ソプラノ歌手のように高く響く声が耳に入って来た。ふと顔を上げてティッシュペーパーで目頭を押さえる。立ち上がり縁側の窓を開けると、湿った重い空気が鼻先をかすめた。生草とアスファルトが混じった臭いだ。

 「友恵さぁん。ありがとう」

出来るだけ声を張った。窓際で箱座りをして外を眺めていた太郎の耳がピクンと一瞬だけ動く。

 銀髪の縞模様に、洒落た鍵しっぽがアクセントだ。政信が今日と同じような雨の日に玄関先で餌をあげてから、十年以上の付き合いになる。

茶色い土だけが敷き詰められた自宅の花壇から、更に数メートル離れた庭先で洗濯物を取り込む女性がこちらに大きく手を振った。友恵は秋子が三十年前、家を建てた時には既にこの集落で一人暮らしをしていた。ずいぶん広い家で一人暮らしをしているものだと思ったものだけど、人の事情に踏み込むのは、ご近所でも気まずくなってしまいそうな気がして立ち入らないことにしていた。

秋子は滝ノ入の風景が気に入っていた。早朝にスズメの地鳴きで目が覚めると何とも言えない心地良さだ。それに森に囲まれているから、空気が澄んでいる。四人暮らしだったのはほんの少し前のことで、今は太郎と二人暮らしだ。

少ない洗濯物はすぐに取り込んで、居間の突っ張り棒に干し直した。ダイニングテーブルに戻り雨の雫が付いた眼鏡を拭いてから、ぬるくなったお茶を飲む。秋子が手紙を書いている相手は政信だ。普段は少しかしこまって書くのだけど、最近は恨みったらしい方が多いかもしれない。居間の仏壇に立てた政信の遺影を見る。

「……」

自分でもどう扱って良いのか分からない、安堵のような憎しみのようなものが波打っている。金色の大きな縁メガネ、七三分けのヘアスタイル、ふっくらとした輪郭。全てが余所行きの表情を浮かべている。恰幅の良さが肌に艶を与え、今にも喋り出しそうだ。五十八歳という若さであった。

「ねぇ、政信さん。あたし、先に退職して手の込んだ料理でも作ってみようかしらぁ」

「ほう、いいんじゃないの? まぁ、秋子の腕では僕にはかなわんだろう」

「何よっ、もう」

早朝から二人して台所に立つような夫婦だった。

政信の肩をポンと押して笑い合っていたのが、ついこの間のように思い出される。

「働くだけ働いて、これからだったのに。政信さん……」

これから夫婦二人で第二の人生を謳歌しようとしていた時に、一切の夢が叶わぬ仕舞いになってしまったのだ。

涙でインクの滲んだ便箋を捨て、新しい紙を用意する。気持ちを落ち着けてから、再び向こうの世界へ宛て手紙をめかしこむ。

 

<拝啓 盛夏の候 今年も暑さが増しているように感じます。そちらにも、季節が巡って来られるのでしょうか。海のない埼玉の暑さは、まるで逃げ場を閉ざされた回遊魚になった気がします。この時期になると、縁側を背にしたあなたが横たわって盛大な鼾をかいている姿が目に浮かびます。あなたがいつも胡座をかいていたその位置に、その姿が無いというのは、やはり心に穴の空いた気持ちになります。蝉の声をジリジリと全身で感じながら、冷えたスイカにかじりついていたあの日の話し声が、恋しくてたまりません。ですが、どうぞこちらの心配などせずに、ご自愛なさって下さい。 敬具>

 

翌日、自室にこもって日記を書いていた秋子は途中でペンを置いた。

「政信さんとなんか、結婚しなければ良かったわ」

 その目は丸く見開かれ窓の向こうを睨みつけた。山椿の葉に蝉の抜け殻がぶら下がっていた。それはゆらゆらと風に煽られ今にも落下しそうになっている。

「どうして私が、こんな思いをしなきゃいけないのよ」

足先から頭に血が上ってくる。重たくなった頭のせいで首を前に傾け、手の甲に額を押し付けた。硬く目をつぶる。しばらくして目の奥が痛み始めたのを感じてベッドに倒れ込んだ。

政信が突然帰らぬ人となり五年が経とうとしていた。三回忌が終わってからも暫く来客が続いたものだから気を張っていたのだろう。張りつめていた緊張の糸が解けて体の力が抜け始めたのを感じていた。ひどく疲れたというより、中身が空っぽのお菓子の箱みたいに、これ以上何かを与える力が出ないという気分に近い。

 

来客と言えば、同僚の鈴木さんを思い出す。

「残念です……。三十年以上、一緒にやってきた同僚ですから」

眉間にシワを寄せ、目を真っ赤にしながら泣いてくれた。弔慰金やら共済金の手続きなら電話や郵送で済ますことも出来るだろうに、鈴木さんはその書類を大事そうに持ってきてくれた。いいえ、もしかしたら政信に会いたくて、書類を理由にわざわざ車で一時間半かけて毛呂山町まで通ったのかもしれない。いつも夕方の六時前には顔を出されていたから、ここに来るために早々に仕事を切り上げてくれたのだと思う。

「鉛筆で丸を付けておきましたから、こちらにご記入と、それからここの二か所、ご捺印して投函して下さい。説明書きはややこしいですから。他にご不明点などありましたらわたくしども総務にいつでもご連絡下さい」

涙を浮かべて仏壇に手を合わせる姿は、政信の顔を忘れまいと目に焼き付けているように見えた。

 (政信さん、今日も鈴木さん来てくれましたね。本当に助かっているのよ)

何度か顔を合わせるうちに、秋子も柔らかな表情をつくるようになっていた。

「お昼休みにはですね、食堂で、部長はいつも野菜炒め定食を選んでましてね。ニコニコしながら美味しかったと食堂に挨拶して席に戻るんですよ。今日みたいに暑くて仕方ない日は、部長も私も、ざるそばセット」

「あら、そうですか。政信さんらしいわぁ」

 クスッと笑顔がこぼれた。どうやら鈴木さんと政信は昼休憩を一緒に過ごしていたようだ。来客の中には腫物に触るように深刻な表情を浮かべる人が多い中、鈴木さんは、政信との思い出話を共有してくれる人だった。確か十年近く前、自宅のデスクトップパソコンの調子が悪くなった時、駆けつけてくれたのもこの人だった。同僚というより、近しい親戚のような雰囲気で接してくれる人だ。その存在は秋子にとってもありがたかった。

「鈴木さん、お忙しいでしょうに。本当にありがとうございます」

 「とんでもないことです。それではまた、失礼しますね」

 

――最近の心境の変化というと、天井から頭上を細い糸でピンと吊られていたのが、ハサミでプツッと切られてしまったように首に重みを感じる。毎日、手紙のような日記を書いては、ベッドに仰向けになる。メガネを外すと少しの間、頭の重みから解放された。この先のことなど見なくて良いような気分になる。

(いっそのこと、このまま一生、寝ていたい)

そんなことを考えている秋子の横に、太郎が壁に向かって四本の手足を投げ出した格好で、屍のように眠っている。時々、痙攣したように足先をピクピクさせて顔を上げたかと思うと、再び布団に沈んでいった。

太郎は秋子が日記を書いているといつの間にか机の上にやって来る。秋子に向けて体を真っ直ぐに正し、会話をしているようにジーっとこちらの目をのぞき込む。

 「太郎、あんたも寂しいか。そうよね」

 両手で太郎の顔を包み、額を合わせる。太郎は嫌がらない。眠たげに目を細め、一定のリズムに乗ってゆっくり鍵しっぽを左右に動かす。秋子が太郎の顔から手を離してしばらくすると、目を閉じたまま体が左右に揺れている。あれはお通夜の晩だった。真っ白な布団を掛けられた政信の冷たくなった体。太郎はその太腿の間に挟まれて丸くなり、そこから動かなかった。あまり騒がしく鳴く猫ではないのだけど、その日の夜は太い声を出してしきりに鳴いた。

 「ンミャーア、ンミャーア」

聞いたことのない不思議な鳴き方だったから今も耳に残っている。冷たくなり動かない政信を不思議に思ったのか、もう動くことがないと分かっていたからなのか、太郎に聞いてみないと分からない。それでも、冷たくなった身体を温めようとしているような、何か太郎の想いのようなものを秋子は感じた。

 「あんたは、人の気持ち分かるよね」

 「……」

 「ん? 話してごらん」

 「……」

太郎との二人暮らしは、静かに過ぎていく。

政信の机は整理したものの、捨てられずに置いてある物の方が多い。金色の大きな縁メガネだけは、机の上に置いたままにしている。政信の身体の一部だから、まだ処分する気持ちにはなれないからだ。この頃よく夢に見る光景がある。政信と何か会話をしかけたところでプツリと目の前が暗くなる。目が覚めると、余韻に浸りたくてももうその姿を思い出せなくなっていて、朝露のように涙が垂れる。
(辛い寂しい、寂しくて死んでしまいそう。どうして私だけこんな思いをしているの。周りはみんな幸せそうなのに、どうして私はいつも一人ぼっちで。誰にも分ってもらえやしない。子供の頃から、ずっとそうだった。私はいつも一人ぼっちなのよ)

夏の終わりを告げるように、網戸についたツクツクボウシが鳴いている。滝ノ入の小川から冷たい空気を感じるようになった。山道の辺りにはまだ時期の早いススキが風にそよいでいるのが見える。

 

太郎の姿が見えなくなって丸二日が経った。

(どうしよう。どこかでケガでもして、動けなくなっていたら)

夜空には、たくさんの星が光っている。秋子は十一時を回っても懐中電灯を持って庭先から山道の辺りまで太郎の姿を探し歩いている。街灯は遠くに一つ白く見えるだけで、山の方から吹いてくる風に寒気がした。太郎の姿は見当たらない。どこかで太郎の声が聞こえないかと耳を潜めていると、嫌な気持ちが押し寄せて来た。

(太郎までいなくなったら、私はどうしたらいいのよ……)

私はこんなに、周りから必要とされていない人間なのだろうか。三姉妹の真ん中に産まれ、母の手伝いや妹の面倒をみてきた。二歳年上の姉は少し抜けているところがある人だから、母からの頼まれ事は秋子にまわって来る。やれ食器を片付けろだの、仏壇の拭き掃除をしろだの。うまくやれなくて余計に手間のかかる作業を増やしてくれる姉は最初から当てにされていなかった。しかし、いざとなると姉の意見が優先される。

結婚は、姉妹の中で一番遅かった。子供が出来たのも妹より三年遅れたし、その後は一度流産した。そんな時に政信の提案でこの毛呂山町に引っ越してきたのだ。この環境でなら、人目を気にすることなく伸び伸びと疲れを癒すことができそうだねと。食卓で冗談を言い出すのは政信で、いつも秋子の笑顔を引き出してくれた。一度、仕事と不妊のストレスで、秋子が倒れてしまった事がある。自己管理ができていないとか言われて怒られるのは嫌だと思って、目をつぶったまま横になっていた。

「君は、頑張りすぎたんだよ」

つぶやくような声が聞こえた。頑張るのが当たり前で、それをギリギリのところで何とか器用にもこなせてしまう……秋子の胸に響く言葉だった。今までこんな人に出会ったことがあっただろうか。政信が言葉をかけてくれた時、何かに包まれた感じがしてほっとして泣いてしまった。

(どうして皆、私を置いていなくなってしまうの)

 冷たい風が、頬に垂れた熱い涙を冷ましていく。足元に懐中電灯を照らすと、つっかけサンダルの中に履いた靴下に太郎の毛玉が絡まっているのが見えた。ここに太郎がいるような気がして、少しほっとする。

友恵にも、万が一見かけたらすぐに教えてくれるようにお願いをしておいたから、今日のところは帰って待つしかない。自宅に引き返し、ざわつく心を落ち着かせるように熱いお茶に口をつけた。            

太郎がいつ帰って来ても良いようにと、食器はいつものように高さのあるトレイに並べて綺麗な水を注いである。そのうちひょっこり顔を出すに違いないと自分に言い聞かせた。

 政信が亡くなった時のことを思い出す。

 「ただいまぁ」

いつもの調子で玄関から帰って来るような気がしていた。病院から自宅に戻って来てお通夜の手配をする時に、政信のお通夜なのに政信に連絡しなくてはと思って、間違えて携帯電話にかけてしまった事があった。

「電源が入っていません――」

アナウンスが流れてハッと気が付いた。

(まったく私は何をやっているのだか)

ますます心の穴を大きくしてしまった。狐につままれたような気分というのは、こういう事なのだろうか。政信との別れがあまりにも急すぎて、あっけなくて、事態を呑み込むのにはついていけなかった。救急車が到着した時には、政信は意識を失っていて体中汗まみれだった。まさか持病を抱えていたなんて、家族の誰も知らなかったものだから、秋子も彩子も慌てふためくばかりで、
「どうしよう、どうしよう」
気持ちばかり焦って最良な判断が出来ず、額に汗をかきながら政信が意識を失う前に言った一言
「救急車……」
それを聞いて、やっと事態を飲み込む事が出来たのだった。心残りはたくさんある。もっと早く早期退職して、政信に手の込んだ料理を食べさせたかった。政信と過ごす老後を楽しみにしていた。一緒に車で出掛けたり、おにぎりをにぎって政信の好きな釣りに付き合ったり。あれこれ話しながら一緒に料理もしたかった。小さな畑で野菜をいっぱい収穫するのが楽しみだった。最後まで、一緒に歳をとっていきたかった。やっとこれから二人の楽しみを一つずつ叶えていこうと思っていた時に……。

 
翌朝、猫の声が聞こえたようで早く目が覚めてしまった。時計を見ると四時三十分を過ぎたところだ。布団の上に目をやるが、そこに太郎の姿はない。もうひと眠りしようと目を閉じた。

 心地の良い風が吹いている。大きな木の木陰に、政信とまだ小さい彩子と三人で座っている。二人とも口元はにっこり微笑んでいるが、声は聞こえない。政信はトンボのような真っ黒なサングラスをかけている。彩子が駄々をこねだす。政信の口元は笑っている。

(私はどんな顔をしているのだろう)

小鳥の地鳴きが激しく聞こえてきて目が覚めた。再び時計の針に目をやると七時五分を指している。太郎が帰って来ているような気がして、急いでキッチンに向かう。綺麗に並べられた太郎の食器が目に入る。そこには誰もいなかった。

 

滝ノ入ローズガーデン秋のバラ祭りに行こうと誘われたのは十月に入ってすぐのこと。ゆずの里オートキャンプ場と隣接するこの場所は自宅から歩いて数分の距離。バラ祭りに出かけると言っても庭を散歩するような心持ちだ。

 「お母さん、十月二十日からバラ祭り始まるじゃない? 見に行こうか、ちょっと寒いけど」

 「そうねぇ。それよりねぇ、この間から太郎が帰って来なくて」

 「えっ? うそ」

 「うん。そろそろ三週間も経つなのよ」

 「そうなの?」

「毎日家の周り探して歩いてさぁ、友恵さんにも協力してもらったりして」

「そうだったの」

「うん、それでね、ほら、太郎もそろそろ年じゃない。もしかしたら、もう戻って来ないんじゃないかなって思って」

「うん」

「猫ってさ、寿命が近づくと飼い主に見えないようなところへ行くって聞いたことあるでしょう? それじゃないかって思ってるのよ」

「太郎が? でも、考えてみれば、ずいぶん長く家にいるよね。もう十年くらい?」

 「十三年よ」

「そっかぁ。まぁ、でも今はあんまり、考えない方が良いかもね。もしかしたら、太郎の事だし、あの時みたいに急に戻って来るかもよ?」

「そうだといいんだけどね」

少し黄色がかった木の葉が増えたように思う。山の辺りから流れる空気は冷たく澄んでいる。彩子と二人、スマートフォンでバラの花を写真に収めながら歩いた。淡いピンクに白、オレンジ、黄色と秋にもこんなに色とりどりに花を咲かせるのかと感心する。

「バラって、年に三回、見頃があるらしいよ」

「あら、そう」

「うん。春、初夏、秋。秋のバラの葉っぱは色が濃くて少ないんだって。花数も少なくて香りが濃厚になるんだってよ」

「へぇ、よく知ってるじゃない」

「秋のバラってどんなんだろうって、気になって調べたの」

彩子は濃い赤色のバラにとまったトンボを見て足を止め、カメラを構えている。栗色のセミロングケアが風になびいている。

(彩子も、大人っぽくなったみたいね)

バラ園は春に比べると落ち着いた雰囲気で少し寂しげに見える。まるで心が見透かされているようで嫌な気持ちになった。私たち適度な距離を保っていますとアピールするように、薄いピンクのバラが間隔を空けて咲いていた。

彩子は相変わらず口数が少なく、時々何を考えているのかよく分からない事がある。小学六年生の時、夕食を食べた後に慌てて家を出ようとしていたので注意したことがある。

 「こんな時間にどこ行くの?」

 「すぐ帰って来るから、ちょっとそこで買い物」

 そう言って飛び出して行ってしまった。携帯電話を持たせていたから、すぐに電話をかけた。

 「こら、すぐ戻ってきなさい」

 「すぐ戻るよ」

 十分経っても帰って来ないので、もう一度電話を鳴らした。

 「彩子、まだなの?」

 「今、戻ってるとこ」

息を上げて帰って来た彩子は、すぐに自分の部屋へ駆けて行った。その夜、入浴が終わって自室に入った秋子は机の上にカーネーションの花を見つけた。

 <母の日、オメデトウ>

 (あちゃぁ、やってしまった。あんなに叱るんじゃなかった……)

困った顔で小さなカードに返事を書いた。こっそり彩子の眠る部屋へ行き、机にカードを置いた。

 <ありがとう>

 昔から、子供らしくないというか、急に大人びた態度をとったりして、つかみどころのない子だなと思っていた。一人で出来るから大丈夫と言って、本来なら母親同伴で行くピアノ教室に彩子だけ一人で通ったこともある。こういうところ誰に似たのか……。秋子は苦笑いをする。

バラ園を歩いている時から少し気が付いていたけど、今日の彩子はやっぱり変だ。楽しいのだか、楽しくないのだか、短いため息ばかりついている。その予感は的中することになった。

少し遅くなった昼食を近くのうどん屋で食べて自宅に戻って来たのは三時頃。温かい緑茶が飲みたくなりお湯を沸かしていた。ダイニングテーブルに座った彩子が、何やら緊張した様子で話し出したのだ。

 「あの、急なんだけど……」

 「えぇ? 何よ」

 「私、結婚したい人がいるの」

 「はぁ?」

 「なかなか、言い出せなくて、ごめん」

 「……」

 「実は、相手の人、沖縄の人なの。それで、私、結婚したら沖縄に移り住みたいと思ってて」

 彩子は目を伏せたまま話し終えると、呼吸を整えて顔を上げた。

「えっ?」

秋子は耳を疑った。もう一度聞き返し、次に出てきた言葉は二人を沈黙させた。

「私は、どうなるの?」

何の準備もないまま谷底へ突き落とされたのだから、それ以外かける言葉が見つからない。

 「ちょっと待って、急すぎて驚いちゃった。少し整理させて、また今度話しましょう」

 お湯が沸いてカタカタとやかんの蓋を押し上げる音が、遠くに聞こえる。よく分からない感情が沸きあがってきた。想像もしていなかった事を聞かされ雷に打たれたようだ。

彩子が帰ったあと、気持ちを整理しようとして久しぶりに日記を開いた。

(こんなに哀れな母親を差し置いて、自分だけ幸せを掴もうっていうの?)

政信が亡くなってから、特に口数の多いわけでもない彩子と二人で外出する事が増えていたのは、彩子が秋子を気遣ってのことだったのかもしれない。彩子も寂しい思いはあったのだろう。だけど、それとこれとは別問題だ。彩子の寂しさとは、次元が違う。ましてや自分だけ沖縄へ行って、幸せな新婚生活を送ろうなんて、そんな事をよく思いついたものだ。

しばらく呆然としていた秋子は、込み上げてきた何かを日記にぶつけられずにはいられなかった。ペンを握る右手に力が入る。 

<十月二十一日、ローズガーデンで彩子、結婚、沖縄×>

<許せない。女の子は一生、哀れな母親の傍にいてやらないといけないのに。それなのに、どんな男にそそのかされたのか。呆れた。絶対に許しません。許せるわけがない>

抜け殻のように寂し気だった瞳が、怒りで鋭くなる。

<彩子がこんな人間だったとは思わなかった。裏切られた。自分の事しか考えてないじゃない。沖縄なんてダメ。母親がまだ立ち直っていないのだから。彩子の裏切り者>

 寂しさや悲しみを通り越して、別の感情に変化していくどうしようもなく重暗いものが秋子を包んでいった。この間、政信の遺影を見ていた時に近いような、もっと激しい気持ちが込み上げてくる。どうにもならない感情を、ぶつける相手がいないというのはこんなにも苦しいものなのか……。秋子は机から離れて、ベッドに仰向けになった。そこに、太郎の姿はない。動悸が治まるのを静かに耐えようとして、眠りについた。

 

政信の遺族年金の手続きをした時、彩子とのちょっとした思い出がある。手続き書類に書いてあった「寡婦」の言葉を辞書で引いてみたのだ。そこには「夫と死別、または離婚し再婚しないでいる女性。未亡人」と書いてあった。

「そんなにはっきり言わなくても」

そう言って二人で笑い合った。このまま笑い合っていれば、いつか寂しさが消えて無くなっていくような気がしていた。その時は素直にそう思った。これからだという時に夫との別れが突然やってきたのだから、気持ちの持って行き場が無かったのだ。寄り添ってくれる相手はもちろん娘であり、そばにいてくれるものだと期待していた。私にとってそれが当然のことだった。少なくともいつか立ち直る日が来るまでは。

 

 滝ノ入ローズガーデン秋のバラ祭り会場から、バラが消えた。秋のバラの見ごろはたった十日間しかないようだ。この地域は山に囲まれた少し高台にあるから、十一月はずいぶん寒くなる。太郎はどうしているのだろう……。

 秋子は政信と話していた通り定年退職を五年前倒しにしていた。三十年間、教卓に立ち続けてきたこれまでの生活とは打って変わって、ここ三年余りは時間に追われない生活を送ることが出来ている。退職してしばらくの間、教員のサポートという役回りで週に何度か学校に行ったりもしたものだ。だけどそれを少し負担に感じ始め、自分の時間を思う存分過ごしたいと強く思うようになった。

 (これが、私の求めていた第二の人生なのかしら)

 

在職中というと、生徒の保護者から

 「子供がまだ帰って来てないんです」

 と自宅に電話がかかってくることもあった。そうなると家のことにはかまえずに、学校に戻ったり、生徒を探しに行ったりもした。給食費の未納が続くと、それも卒業までに回収しなければならず、その間、大きな声では言えないが自腹で埋め合わせをする事もあった。

行事や新学期の前になるとその忙しさは倍増した。教室に飾る掲示物の作成から始まりテストの採点、通知表の記入と、それは家事を終えて深夜、家族が寝静まった頃からスタートした。そんな事が続いたある日、体調を崩し倒れてしまったのだった。あの時の政信の声掛けに、どれだけ救われたか分からない。

 (私の居場所は、政信さんのとなりだったのに。やっと今から二人の時間を過ごせると思っていたのに)

 思い出したように涙が溢れてくる。

 (太郎がいなくなったと思ったら、今度は彩子が結婚するだなんて)

 一人だけ、ポツンと置いて行かれたような気がした。

 (どうしてこうも、次から次へと……)

 気力を奪われたというように外を眺めていると、カラスが鳴いているのに気が付いた。仲間を呼び寄せるように、大きな声を出してひっきりなしに鳴いている。本棚の上に置いた時計をみると、午後二時を回っていた。いつも太郎と昼寝をしている時間だった。この頃は一人で寝るのに少し慣れて来たかもしれない。たった一人だけの、贅沢すぎる時間だった。

 (――そろそろ買い物へ行かないと、夕方になるとスーパーの駐車場が混んでしまう)牛乳が切れていた事を思い出した。秋子は、埼玉のマスコットが印字されている水色のパッケージの牛乳を好んで飲んでいた。昔コバトンって何だろうと思って調べてみた事があった。インターネットで検索すると、シラコバトが出て来た。簡単に概要をさらうと、渡りをしない鳥と書いてあることに驚いた。その下の欄に、「つがいで暮らす」と書いてあった。今、一番嫌な事と言えばスーパーに来ている夫婦が、当たり前のように一緒に品物を選んでいる姿を見ることだ。そんな光景を見ると、胸がざわついた。

 

 最近庭先で見かけないねと心配して、友恵が家にやって来た。

 「ちょっと、顔色悪いんじゃない? 大丈夫なの?」

 「ええ、少し胃の調子が悪いの」

 「まぁ、大変。太郎のことが体にこたえたのね」

 「……」

寒いから入ってと言って、友恵を居間に上げた。近所に住んでいるのに、こうして家に上がってもらうのは政信のお通夜の日以来だった。

「政信さんに、お線香させてちょうだいね」

「ありがとうございます」

深々と手を合わせてお辞儀をする友恵に、ふと疑問をぶつけてみたくなった。

「友恵さん、言いたくなかったら答えなくていいんだけど……ご主人は?」

友恵は笑顔で話してくれる。

「あぁ。うちの人ね、結婚してすぐ死んじゃったの」

「えっ」

「この場所が気に入ってね、子供ができても良いようにって、二人には大きすぎる家を建てたわ。私たち、子供が好きだったから。でもね、子供が出来る前に亡くなったのよ」

「知らなかったわ。ごめんなさい」

「だって、言ってないもの」

友恵は笑っている。

「それからずっとここで、お一人でいらしたのね?」

「そうよ。戻るところもないしねぇ。ここが私と主人の居場所だから」

「そうね、いいところだものねぇ。私も好きだわ、ここが。友恵さんは寂しいと思うことない?」

 冗談交じりに、出来るだけ明るく話してみる。

「そりゃ寂しいわよ、今だって。主人がいてくれたらって思うもの」

「そんなふうには見えなかったわ。だって友恵さんは、いつも生き生きしているもの」

「私はねぇ、ここで自然に触れあって、自然に生きている今の自分が好きなの」

「自分が好き?」

「ええ。主人の写真の前に季節の花を一輪さして、湧水でお茶を入れている自分が好きだわ。なんだか、丁寧な暮らしって言うの? だって私、自分が好きな事しかしていないからねぇ。こうしていると、主人が喜んでくれている気がして、元気が出るのよぉ」

「……」

「自分はこんなに悲しいことを乗り越えて来たんだぞって。自信が持てるっていうか、もうこれ以上悲しい事なんて起きやしないんだから、怖い物知らずになっちゃって。そしたらねぇ、悲しそうにしてる人なんか見ると、おいでって言って、話聞いてあげたくなるのよぉ。お節介な御婆さんになっちゃったみたいでしょう」

友恵と秋子は、声を上げて笑う。

「泣くのを我慢したりもしたけどねぇ、我慢なんてそんなの続かなかったわ」

 (私は、我慢なんかちっとも出来ない)

 「だからねぇ、秋子さん。あなたも我慢しないで思い切り泣いて良いのよ。それが、自然に生きるっていうことでしょう?」

 「……」

 「政信さんも、自分が死んで秋子さんが泣いてくれなかったら、きっとあっけにとられてるわよぉ」

 秋子は、笑いながら涙を流している。その横で、友恵は仙人のように微笑んでいた。

 

 紅葉の葉がいよいよ散り始めた。今年も真冬に備えて、厚手の五本指ソックスを買った。今朝はよく冷える朝だった。靴下のタグをはさみで切っていると、

「ビャー、ンビャーン」

 潰れたようなかすれ声が耳に入った。

 「ん?」

 縁側から聞こえたような気がして、そちらに目を向ける。

 「太郎?」

 姿が見えないので、窓を開けてのぞき込んでみる。するとかすれ声の主がそこにいた。あちこちボサボサに逆立つ毛色は銀髪の縞模様だった。縁側に上がるのを遠慮するようにブロックで二段になった足踏み場を前にして、地べたに座っている。

 「やっぱり太郎じゃないの。太郎、探したのよ」

 秋子は慌てて縁側の下の太郎に駆け寄る。ゴム製のスリッパが足の裏に冷たく吸付いた。

 「ビャーン」

返事をする太郎の顔を、両手で包み込んだ。

 (こんなことってあるのね……)

 もう太郎が帰って来ないことを覚悟していたから、嬉しさで全身に力が入る。とにかく思う存分太郎を撫でた。泥のようなものが付着した顔は目を細めて、少し震えているようだ。

 「秋子さぁん、太郎なのぉ?」

剪定鋏を持った友恵が、向こうの庭から声を掛けてくる。

 「そうそう。帰って来たのよ」

 秋子は大きく笑顔を作った。

 「そうなの。良かったねぇ」

 友恵の大きく開いた口が見えた。

(太郎がこの家の事を忘れないでいてくれた)

無事に戻って来てくれたことに、秋子の胸は熱くなった。その時、

「ニャー、ンニャーン」

聞きなれない声がした。庭先を見ると白い猫が座っていた。

「太郎、あんた友達も連れて来たのぉ?」

太郎は喉を鳴らして体を擦り付けてくる。

「こっちおいでぇ、ご飯よぉ」

秋子はキッチンの隅から、少し高さを出したトレイを持って来て縁側に置いた。太郎の食器の横に、もう一つ小ぶりな食器が並んでいる。太郎が好きなまぐろ味のカリカリと鰹節をまぶして、深さのある丸い食器にたっぷりの水を注いでやった。秋子はゴロゴロと喉を鳴らして食べている太郎の姿を、目尻を下げて眺めている。たまらず背中を撫でると鍵しっぽがピンと跳ねた。

「どこ行ってたのよぉ」

そう言って何度も声を掛けながら、タオルで体を丁寧に拭いた。

「あんたも色々あったのねぇ。お帰り、太郎」

また優しく撫でてやった。

 

太郎が二匹で帰って来たと聞きつけて、彩子が家にやって来た。冬も本番を迎えようとしている。日が落ちるのが早くなり、この頃は夜が長く感じる。

「お母さん、どう? 最近、調子は」

「あぁ。まぁね。いいわよ。太郎も帰って来たし」

「……」

「何?」

「ううん。別に……太郎ぉ、元気だったのぉ」

 彩子は、太郎の顔がつぶれそうなくらいに撫でている。

 「ミャー、ンミャー」

 少し距離を取ったところから、白猫が挨拶するように鳴いた。
 
 「かわいいじゃない。太郎のお友達。名前、どうするの?」
 
 「うん。寒い日に太郎と帰って来た白い猫だから……シロよ」
 
 「何それ、普通じゃん」
 
 「覚えやすいでしょう」

 二人はクスクス笑いあった。彩子の表情がどこか浮かないのを、秋子はすぐに感じ取った。彩子が沖縄へ行ってから、お中元やお歳暮が届くのをいちいち送り返す事にも疲れて、最近は潔く受け取る事にしていた。
 
(この子は、自分で決めた事には一直線だから……)

秋子は、政信の遺影に目をやる。

(ねぇ。あなた、あなたはどう思う? 彩子の事が、可哀そうだと思う? 私はあともう少し、彩子と生活していたかっただけなのに、私を置いて出て行ってしまった彩子の事。もう許すべきなのかしら? )

政信は、恰幅の良い笑みを浮かべている。

(うん、そうよね)

冷蔵庫には残り野菜くらいしかなかったのだけど、彩子が豚肉とニラ、大根、もやし、豆乳と立派なぶどうを買ってきてくれていた。

「適当に作るから座っててぇ」

彩子がそう言うので、太郎とシロをキッチンに残してダイニングテーブルに腰かけた。

「最近発見したんだけどぉ、合わせ味噌に、豆乳とにんにくのすりおろしたもの入れるとさぁ、豚骨風になるの」

 「そう、鍋のもとは使わないの?」

 「うん、使わないのぉ」
 
話しながら、大きな鍋をダイニングテーブルに運ぶ。
 
「お待たせぇ、食べよう、お腹空いた」
 
いただきますと箸を両手に持って揃えると、太郎とシロもテーブルの脇から声を揃えた。鍋の匂いを嗅いで鼻をヒクヒクさせている。彩子が、炊き立てのご飯をよそってくれた。
 
(この子、自炊は嫌いじゃないはずだから、きっと向こうでも、うまくやっているのよね? )

秋子は、ふぅっと息を小さく吹きかけてから、お椀の中の熱いスープに口をつけた。

 「あっ、美味しい……」

食卓に戻したお椀に両手を添えながら、お椀の中を見つめている。涙が出てきて食べ続ける事ができない。

(温かい……。ほっとする味だわ) 

喉を通ってきた豚骨風味のスープは、秋子を体の芯から温めてくれた。豚肉と大根にも味がよく染みている。彩子が作った鍋は、秋子の冷えて硬くなった心を少しずつ溶かしてくれるように感じた。

(彩子も、頑張っているのね)

口の中のあたたかい鍋の味には母にそっと抱きしめられた時のような安堵感があった。涙は熱くて、鼻先も赤くさせた。彩子はその様子をチラリと見て、何も言わずに自分も豚肉とニラを口に運んだ。

<十一月二十日 彩子が鍋を作ってくれた。相変わらず私に似て、感情を表に出すのが苦手な子だ。買い物しながら、体が温まるメニューを考えてくれたのかな。彩子の気持ち、伝わってるよ。美味しかった、ありがとう>

 

滝ノ入集落に、新緑の香りが戻って来た。澄んだ空気の中、心待ちにしていたように野鳥のさえずりが響いている。ゴールデンウィークがまだ続いているみたいに、オートキャンプ場に隣接する駐車場は込み合っていた。滝の入ローズガーデン春のバラ祭りを見に行く人たちだ。十一時に彩子たちが家に来る予定になっている。待ち遠しい秋子は温かい緑茶を口にして小さく息を吐いた。今日は、ペンを持つ手がいつもより軽やかだ。

<拝啓 もう、あなたに会えなくても私は前を向いて歩いていきます>

政信の遺影が微笑んで見える。遺影の横には、彩子から母の日に送られてきた真っ赤なカーネーションの花束が飾られている。縁側には太郎とシロが寄り添って毛づくろいをしている。窓を開けると、爽やかな風が頬に触れた。すがすがしい春の香りが鼻先をかすめる。

 <拝啓 秋子様、僕は君と一緒に過ごす事ができて幸せでしたよ。寂しくなんてないさ、僕はいつも君の傍にいるんだよ。一緒に第二の人生を歩いているからね。君がどんなに機嫌の悪い日でも、毎日楽しくて僕はいつも笑っているだろう?君も僕の顔を見て笑ってくれたらいいのさ。君はいつも頑張りすぎなんだよ>

<政信さん、ありがとう 敬具>

 春のバラ祭り会場から庭に迷い込んだミツバチが一匹、勢いよく空へと飛び立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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