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「学校に障害児対応の勉強会はありますか?」 学校への思い、わたしの思い

こんにちはnanamです
少し前になりますが、自身のTwitterで教員の方に向け、教えて欲しいとツイートしました。
そういえばもうツイートって言わないのかしら、TwitterはXて呼ぶ? うむむ、ここではTwitterで統一させてください。慣れていなくて。まだツイッターと呼んでいたいし。

本題へ。

学校の先生にお聞きしたいのですが、発達障害児への対応の勉強会などは定期的に行われていますか?また、それはどんなことを教えてくれるのでしょうか。

@nana_nananamツイートより

この呼びかけに、何名かの方からリプ欄やDMで回答をいただきました。あのときは本当にありがとうございました。心から感謝します。


さて、そもそも何故そんなことを聞いたのかと言えば、一部の目に余る教員垢のツイートに、その発想はどこからくるんだろうと思うようになったから。

教員免許を持つ先生達は、特別支援教育を学ばれているはずで、特別支援学級や支援学校の先生になるためには更にその道を極めていらっしゃるハズだと思っていました。だから、実際に療育現場に出向いて学んだり、障害児が混乱せずに安心して過ごせる方法を、どこかの施設で訓練してから現場に出ている。そうイメージしていました。机上の勉強だけでは、とてもじゃないけど特別支援など、できるわけないです。そんなに簡単だったらどんなにいいかと思うけど、実際は知識と経験値を積んでいって少しずつ形にしていくもの。それでも上手くいかないことは多いので日々勉強。産まれてからずっと側で育児してきた親でさえ難しい、試行錯誤する日々。

だから先生達も、実地の訓練によって学び、子それぞれの障害特性に合わせた対応を身につけた人だけが、支援の場に立たれているのだと勝手に思っていました。

でも、実際はそうじゃなかった。
 

怒鳴り散らす先生もいれば、私達は専門家じゃないのでと耳を貸さない先生もいる。学校の門を出たら校内で起きたことも家で対処してくれと言う先生もいるし、それでいて「学校−家庭−療育の連携」の姿勢を全く示してくれない先生もいました。

一部には、トークン(トークンエコノミー)を使って目に見える形で子供のやる気を引き出せる、知識豊富な先生も確かにいたけれど、後になって思うのは、あの先生が特別だったということ。

障害児対応は、先生によって雲泥の差でした。

だから聞いてみたかったんです。
先生達の言う勉強会が、どんなものなのか、支援者側の先生達を支える人はいるのかどうかも含めて、聞いてみたかった。

教えて頂いた回答に思うのは、ザックリ言うと「知る機会がない」のだな、と思いました。勉強会はあるけれど、内容に偏りがあったり、頻度も足りていない…というよりも、障害児がどんなものの見方をしているのかとか、障害のことを深く知らないと誤ったサポートになってしまうんじゃないかと思います。わたしが一番時間をかけてきたのが、障害児の視点だったので、それを疎かにして対応だけを考えてもうまくいかないと思うからです。

勉強会の内容を覗いてみたいくらいですが、先生をバックアップする後ろ盾も、とにかく弱いんだなと感じました。そこに力を入れないと、今後も変わらないんだろうな。支援云々言ったところで、基本はあれど、障害児サポートは臨機応変を常々迫られるわけだから、何をもって正しい支援となるのかは、状況によっても違ってくると思うので。机上の空論になっていないか、いま一度考えるべきところだと思いました、これは偉いひとへ言いたいことです。

なんでこんなことに拘るの?と、思われる方もいるかもしれない。

学校の先生にはいろんな人がいるし、忙しいんだからしょうがないじゃん、と思う人もいるかもしれない。

でも、立ち止まって考えてもらいたかった。

先生が良かれと思って指導するその方法が、子供を傷つけているのだとしたら。そのせいで学校から足が遠のき、不登校となり、フラッシュバックに苦しめられているのだとしたら。

間違った対応一つで、子供の将来を閉ざしてしまうことがあります。その原因を、学校が作っているとしたら。発達障害の子が二次障害に苦しむことはよくあることです。発達障害の講習会では、二次障害の話をウンザリするほど聞いてきました。それほどによく起こるからなのでしょう。

だから、一方的に叱りつけてくる先生の場合、息子の精神が傷つけられないために、わたしは登校を控えさせることがあります。そんなとき、学校ってなんだろうとぼんやり思います。わからなくなるのです。

学校って誰のためにあるんだろう。

先生のためにあるんでしょうか。

息子は第三の居場所を大切にしていますが、これは正しい形なのだろうかと疑問に思います。適切な指導を親と学校が共有できていたら、回避できることも多々あると思うのに、そうはならない。わたしは、いつまで経っても答えが見つからないままでいます。

息子を安心して学校に通わせることを、求めなくなりました。そうしたら、気持ちが楽になりました。考えつくことは一通りやってきて、行き着いたところは「学校を休む」でした。

「学校休ませてくれてありがとう」と言う息子。

何が正しいのか、追い打ちをかけるように更に分からなくなりました。学校が誰のために存在しているのか、答えが出ないままでいます。

学校の先生が障害児対応のプロではなくとも、家庭と共有することで、先生の持つ力は発揮されると思っています。いい先生ほど聞いてくる。これはわたしの持論だけど、家庭と共有しようとする先生ほど、子供が荒れている時でさえ親と穏やかな関係を保っていられることが多いのです。そのことが親に余白が生み、その余白が先生とのいい関係を作っていく。知識も経験も必要だけれど、不明な点を聞き出して策を練ることは子供の成長に繋がっていくものだと思う。それは、先生の労力を軽くすることにもなるのです。

どんないい先生でも、三位一体は必要です。基本はブレず、支援は厚く、世の中の普通を説かず、個々に合ったサポートがされる特別支援教育であってほしいと夢にみています。



スキしてもらえると嬉しくてスキップする人です。サポートしてもいいかなと思ってくれたら有頂天になります。励みになります。ありがとうございます!